雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

希望はどこへ消えた?

昨晩は真剣中年しゃべり場みてたんだけど、予定調和的に言葉が上滑ってる感じだった。せっかく勝間和代さんの指摘が的を射ているのに、すぐ話を逸らされて議論が先に進まない。高校生のころNHKの討論番組に出たことがあって、知識に基づいて論理的に語ってもアツい情緒論に押し流されてしまう構図って今も昔も変わってないなーと暗澹たる気分にさせられたが、司会やキャスティングを考えるに、経済論争や政策論を詰めても視聴者を置いていっちゃうから進行や演出で調整しているのかな。特に出口のない世代間闘争とか、ゆるふわgdgdに落とさないと「不偏不党」じゃなくなっちゃうし。けど15年前、退学直前NHKのスタジオに立っていた自分にやる気なんてあったっけ。今と同じくらい絶望的で夢のない日本じゃなかったっけ。何この真面目ぶる若者に対する既視感。

そうなんです、私休み時間に、すごく怒っていたんです。
時代も変わっている、でも、それでもすぐに
「昔はよかった。今の若者はやる気がない。やる気次第だ」
になるわけです。
とにかく、構造問題を解決して、若者に教育と雇用機会を投資しないと、いけません!!

チーズはどこへ消えた?

チーズはどこへ消えた?

ブログを書きつつ筆が進まず、この調子で番組の終わりまで堂々巡りっぽいぞーっと途中で寝てしまった。お陰で寝付きが悪く二度寝したら4〜5人で仕事の晩飯を始めようとしてる夢をみて、気まずい思いをしながら背伸びして言葉が滑ってる時、どこからともなく本多のおやじさんが現れて、妙にホッとして「もう会えないと思っていたのに」と涙を流しながら握手したところで目が覚めた。早速twitterに書き込んだらid:jj1bdxからは「仕事しろってことでは」と突っ込まれるし、後から思い立ってググったけれど命日だった訳でもない。
僕らナナロク世代って学生運動とか遠い昔だし、まだ親も教師も学歴社会とか信じていて、僕が物書きになりたいといったら進路相談を受けた教師は「東大の新聞研か、マスコミに強い早稲田に行きなさい」なんてアナクロ的なことしかいわないし。当時は日本の中等教育が世界最先端で、けど学歴社会であることが問題だなんて通説が囁かれていたから「君はアメリカに産まれたら中卒で活字拾いから始めて立派な記者になれたろうに、ここは日本だから受験していい大学に行くしかないのだよ」なんて、したり顔で説教されたものだ。
部活や色恋にのめり込みすぎ二度目の留年が決まって高校を中退し、大検こそ取ったものの受験勉強そっちのけでジャナ専のゼミに潜り込んだり遊び歩いてフロムやらライヒを乱読していた。サブカル界隈の些細な優越感ゲームとか等身大の悲喜こもごもは楽しかったけど、この先どこまでいっても革命を信じる人々がいたのは遠い昔で、内輪揉めや内輪受けの連鎖で世界と繋がっていない感じが物足りなかった。
1990年代初頭の高校時代はブルセラ・ポケベル全盛期、大人たちは相変わらず「近頃の若者は」というし、バブルが弾けて以来いずれ財政も年金も破綻するだろうし、安泰といわれた阪神で高速道路が横倒しになって、東海沖地震とかいつ来てもおかしくないし、世紀末に恐怖の大王が降ってくることになっていたし。遠距離の元カノが都の西北に受かって一人暮らしを始めるので駆り出されて新宿で新居の買い物を手伝っているとき、たまたま店のテレビで多くの人々が担架に乗せられて救急車に運ばれていくのをヘリコプターから空撮していたのが地下鉄サリン事件の第一報だっけ。
そんな夢も希望もなく刹那的に漂流していた浪人時代たまたま顔を出したぷらっとホームで、いつものエレベーターではなく階段を降りてみつけたインターネットのショールームに入り浸るようになって、本多のおやじさんと出会い、出入りする様々な人々と接する過程でライターへの道が拓け、ずぶずぶとIT業界にのめり込むことになろうとは。
僕が討論番組でディベーターをやっていた15年前から今と変わらないくらい政治も年金制度もぶっ壊れてて、希望も長期的展望もなかったけれど、糞真面目な奴は糞真面目に、俺のように不器用な奴は不器用なりに、刹那的な奴は楽しく生きてきた訳で、そこは大して変わらないんじゃないか。人生も相場と似て凪いでいると手の打ちようがなく、乱高下している分には期待を裏切られることはあっても、機会やら番狂わせだってある。
今回の番組構成であざといと感じたのは、若者が若者らしい言説を語るようにNHKがオーディションで集めた滑舌の良い学生やら夢追い人であったのに対し、中年組が時間の関門を潜り抜けて功成し名を遂げた人々ばかりだったこと。中年も若者と同じようにオーディションで普通の人々を集めたら、或いは似たようなフィルタがかかるよう過去の討論番組のOB・OGを集めて中年組をつくったら、反対にそういう平凡な中年組と若くして功成し名を遂げた連中とを組み合わせたら、どんな議論になっていたのか意地悪い興味がある。意外と争点は世代よりは凡人と成功者との世界観や人生観の違いにあったのではないか。
恐らく番組中の若者が口々に語る平凡な不安やら願望は決して世代的な愚かさではなく、社会に居場所を見つける前の小市民であれば誰もが抱く期待や不安であって、その日本人の心性って戦後の数十年で大して変わらなかったのではないか。どちらかというと経済環境の激変で、動機付けの仕掛けや夢を与えるシステムが陳腐化しただけではないか。衣食足りて立身出世が動機付けにならなくなってから、高度消費社会に舵を切ったがバブル崩壊もあって長続きしなかった。中高年リストラが大きく報じられて年功序列・終身雇用が疑われ、ロスジェネや高学歴ニートの増加で学歴社会が疑われた。けれども親も教師も、いい学校を出ろ、いい会社に入れ以上の何がいえよう。
年末シューカツを始めた妹から相談があると電話を受けて初めて飲んだのだが「軽い資格よりまずは英語を勉強しろ」「B/S、P/Lが分かっているかは別に能書きだけでも面白いから受ける会社の決算書くらい読んでおけ」「夢を追うなら新卒ではなく、夢を諦めきれなかったとき30歳までに何を身につければ中途で叶うかも知れないか調べろ」「どうせ外から仕事なんてみえないんだから入りたい会社なんて考えるな。ともかく居場所をつくれそうなところに入ってしまえ」なんて月並みな助言をして激しく自己嫌悪に陥った。自分らしくやっているつもりでいながら、虚飾に惑わされて平凡な保守オヤジになっちゃいないか。
年金とか教育の問題を政治的に解いていく必要があることは確かだけれども、いつの時代だって希望と恐怖、楽観と悲観とが同居しているのが常で、何でもお上のせいにして国や会社の庇護を要する人々と、そういったレールを飛び越えて飛翔するひとがいる。それは世代とか政治の問題ではなく、気の持ちようとか運や縁ではないか。そういう意味で昨日のNHKの番組で、特に若者をフォローする側の勝間さんや本田さんの発言が、若者が希望を持てない状況を正当化してしまったとすれば、それはちょっと残念だ。これから9割以上の若者にとって厳しい時代ということは確かだが、中年組でアジっているレベルの人々はGDPの推移とは別の次元で勝ち上がってきたのだろうし、彼らの未来が決して最初からは約束されてはいなかったことだって一方で事実ではないか。
僕は勝間さんが若者世代の代弁者として経済論争・政策提言に携わることを強く支持する一方で、勝間さんの言動に注目している人々が彼女の本から元気をもらおうとしているのではないか、そういった人々が他責とも取れる若者擁護論を展開する勝間さんからどういった影響を受けるのかを少しだけ心配している。自分は自分で這い上がるとして世の中が少しでも筋を通すよう働きかけようという姿勢ならいいが、悪いのはお上で世の中の筋が通らないから自分が希望を持てず不遇なのだという考えは本人を不幸にしてしまう。世代会計や税制の損得勘定に対する政治的センスは時に有用でも、産まれる時期や境遇を選べやしないのだし。
希望は計算の末に生まれるのではなく、退蔵していた情熱が偶然の出会いに触発されて発露することもある。どんな希望や情熱も打算の先にある訳ではないし、僕らは誰も的確な夢を見るほどに物識りじゃない。与えられた訳じゃない希望を自分から追っかけることのできるロマンチストはいつの時代だって多くはなく、彼らの目論見の多くは期待外れに終わる。世の中が若者に対してシステマチックに画一的な希望を与えられなくなっているとしても、そういった枠組みの外側で時代は動き、どこかで希望を持って世の中を変えるかも知れない異才は登場し続けるだろう。日本の未来へ向けて教育投資を上積みし、若年層の雇用機会を増やすことの重要性は論を俟たないけれども、そうでない日本の現状は若者が希望を持たない言い訳にはならない。
最近『本人』でひろゆきがロングインタビューで「でもまれに、ポジショントークじゃない「素」のすごい人もいるんですよ。キチガイ紙一重みたいな。世の中を動かしているのは、そういう素の人じゃないかと思います」と話しているのだが、本当に重要な変化は社会による動機付けの外側から産まれる場合が多いのではないか。お仕着せの希望は社会の安寧や生産力への動員のためで、雇用を通じた希望が失われつつあることを裏返せば産業側が今以上の動員を望まなくなっている訳で、この100年近くで地域社会が崩壊して経済への生活の依存度が高くなっているから、失業や経済の先行きに対する不安が貯蓄率や出生率、或いは生存に対する危機に直結してしまうが、会社や政府が若者に希望を与えられない現代の先にある世界が、どういうものとなるか見通せていない。
時代を動かすような希望って政府や会社から計算ずくで与えられるモノではなく、たまたま何かに触れて気付き夢中になるような何かではないか。僕は本多のおやじさんや彼を慕って出入りしていた人々から、様々なかたちで希望の欠片を受け取ったのだろう。彼らは僕に何か与えようということではなく、自分自身が夢中となって希望を追っていた。希望を誰かと共有することは、まだ希望を捨てていないひとの特権だ。本当の希望とは他人を操るためのポジショントークではなく、自分にとって素で追っかける価値のある何かではないか。自分は今も希望を持って生きているだろうか。その希望を誰かと共有できているだろうか。目先の些細な政治や虚飾に翻弄されていないだろうか。結局おやじさんが枕元に現れたのは仕事しろってことか。反省。