雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

気休め或いは祈祷としての政治

ドイツでゲームと暴力事件の因果関係を巡る議論が再燃している。この30年でゲームが急激に普及した割に、ゲーム大国である日本じゃ少年による重大犯罪が減っているのだから統計的根拠は薄い。では個別の乱射事件がゲームへの没入と何ら因果関係がないかというと、彼らが暴力表現のあるゲームで遊んでいたこともまた現実で、遺族にとって犯罪被害とは確率ではなく個々の現実なのだ。

学校の生徒や教師などを巻き添えに15人もの死者を出した、ドイツの銃乱射事件。17歳の少年が犯行に及んだのは、近所の女の子にふられてしまったのが動機の一つと言われているようですが、Times Onlineでは、犯人が暴力表現のあるゲームをプレイしていた事実を受けて、ビデオゲームと犯行動機の関連性が議論されています。

個別の事案について、彼らがそもそも暴力的だから暴力表現のあるゲームをプレイしているのか、或いは暴力表現のあるゲームを通じて内なる欲望に目覚めたか事後的に論証することは難しい。実は世の中に似たような政治論争の構造は散見される。女子高生がネットで出会うから犯罪に巻き込まれるのか、それとも出会いを必要としている孤独な子はケータイがなきゃ街や電話で出会うのか。
例えば悩みを抱えた女子高生がSNSに想いを書き込み、三十路男に慰められて救われる。ふたりはホテルで心中を試みるが女子高生だけが死に、死に損ねた三十路男がホテルに放火して逃げるが捕まったとしよう。それをマスコミは取材せず警察発表を鵜呑みに「SNSを使った女子高生が、悪い三十路男に引っかかって殺された」と書き立てる。そうやって昭和初期の方が頻発していた陳腐な思春期の心中が、新奇なサイバー犯罪として人口に膾炙し、ネット規制を求める世論を喚起する。
確かにSNSがなければふたりは出会わなかったかも知れない。けれども彼女は別の方法で自殺したかも知れないし、その背後に可視化されないけれども何百倍、何千倍のSNSがあることで励まし合い生きる勇気を与えられた人々がいて、その一握りはSNSがなければ別のかたちで非業の最期を遂げたかも知れない。しかしそれは確率なり仮定でしかなくて、そのSNSがなければ女子高生が死ななかったかも知れないという遺族の想いに対して何ら答えになってない。
太古の昔、日照りが続けば雨乞いの祈祷をし、それで雨が降れば権威が高まり、降らなくても途方に暮れるしかないが、祈祷しなければ民心が離れるといったことがあったのだろうか。政とは永らく公然とジタバタする気休めとして機能してきたのではないか。手を打てば問題が解決する訳ではないが、政体にとっては手を拱いていることが最も威信を損ねる場合がある。政策も西洋薬の治験みたいに論理的な統計学に基づいていて欲しいところだけれども、そうでない現状は必ずしも無知に基づいている訳ではなく、そこにこそ権威とか統治の本質が潜んでいないだろうか。
ネットやゲーム、児童ポルノに対する規制とか、ケータイを子どもから取り上げようとか、効果があるんだか分からない景気対策とか、些細なところで優先席近くでケータイの電源をオフにするようにというアナウンスとか、その根拠が統計的な因果関係の正当性よりも、雨乞いの祈祷に似たような気休めとしての統治行為であったならば、どう対峙できるのだろうか。