雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

世界の綻びを愛でるまで

そういう奴ってロスジェネやその上にも結構いるから別にゆとり世代の問題じゃないよね。昔はまともだった先輩が挫折の末に気付くとそういうノッペリした世界感を育むようになったのをみるにつけ、ああこれは心性の初期値か自尊心を守るために必要な退行なのかという気もする。自分も現実の物事と触れるまでは誤解と偏見に満ちた単純な構図を抱えていて、予断を現実に裏切られる度に内的不協和を補正するための新たな世界像を再構成するみたいな。

これが「正義」に集約されるか、技術に集約されるか、あるいは学歴などに集約されるか、いずれにせよ、自分が依拠する集約点を持つような気がする。つまり、まるでストリートビューに人間のアイコンを置くように、あるポジションに自分を置くことで社会が批判でき、解決が主張できるというふうな類型がありそうに思える。あるいは、ウィキペディア的な知識に正解があって、それ以外は間違いといった。
で、これは「ゆとり教育」とは何か違うと思うのだが、よくわからない。

だから子どもが徐々に大人になって、社会を退いてから徐々に子どもに返っていくというのも当然の道理で、周囲から相手にされなくなれば現実から裏切られる機会も減って誤解と偏見に満ちた世界へと返っていくのだろう。世の中には偏狭な世界観を抱えたままの大きなお友達もいれば、70を過ぎても飛び回り、90を過ぎても矍鑠としたじいさんもいて、常に自分の予断や偏見を裏切られ続けるだけの刺激が重要な役割を果たしている気がする。
わたしのいる会社に40前で日本法人の社長として赴任してきた外人に、優秀な女性マネージャが「あなたはどうやって、そんなに早く偉くなったんですか」と臆面なく聞いたら"Step out of your comfort zone"といわれ、それはそれで自分の予断や偏見を裏切られ続けるひとつの方法ではある。ルーティンに埋もれれば予断に裏切られずに済むし、普通に仕事していて予断が裏切られない構造をつくることは、組織の安定や仕事の品質を担保する上で重要なことだ。しかしそれは統治のためにつくられた整合性であって、世界がそうやって形作られているのか、形作られているかのように擬装されているかは別に考える必要がある。
突然だがわたしは世界の綻びを愛する。ちぐはぐな書類、矛盾に満ちた態度、あからさまな不公正、それらは認知的不協和を引き起こすけれども、本当の世界はその先にあるのである。青年期の若さとは結局のところ自分の内なる世界が矛盾に満ちた現実に裏切られ続けることに耐えられるかであろうし、老成とは裏切られ続けるほど溜めがある訳でもない自分の認知限界に気付きつつ正気に踏みとどまる知恵ではないか。誰だって最初から裏切られなければそれに超したことはないし、その方が世界も安定して予測可能になる訳で、それを東浩紀流にいえば環境管理型権力とか動物化するポストモダンって何かだろう。
しかしパノプティコンが哲学者の妄想であるように、何でも答えてくれるグーグルの向こう側には日夜ハックに励む技術者なり、クロールされるのを待つ無数のWebサイトと、更にその向こうに何か考えては書き留める人々がいる訳だ。そういった仕組みの外側の世界に開かれるきっかけは、何かの拍子に期待に添わない挙動を示される誤配によってであったりするのだろう。例えば味気ないエラーメッセージとか、突拍子もない検索結果とか。コードと思しきファイル名を羅列したトレースバックとか出てくれば最高に萌えるところだけれども、生憎グーグルじゃ出くわしたことはない。
それぞれに閉じた泡宇宙の存在に気付くのは、ほんの些細なきっかけであったりする。法務部で同じ法律について多くの高名な弁護士からヒアリングする度に、彼ら個々人の価値や実感に基づいた別々の法解釈を受け取って、かくも法解釈ひとつ取っても千差万別であるかに驚かされる。或いは立法過程を悉に観察して、人間として精一杯に形式的ではあるけれども最後は人間的な割り切りに気付くこともある。
わたしが『新訂 ワークブック法制執務』に興味を示したことに対して、同じ法律に関わった官僚たちからはそんな些末なことに拘らず、もっとクリエイティブな仕事に時間を使ってはといわれたのだが、これは読めば読むほど面白い本で法律とか立法家の人間臭さを垣間見させてくれる。「法律の題名は法律の一部か」だの「条とは何か」だの延々と問答形式で禅問答のような枝葉末節の立法技術について詳解しているのだが、詰め詰めに論理的に詰めた挙げ句に最後はバサッと割り切る人間臭さは味わい深い。こんなに面白い本を弁護士の多くが知らなかったりするので、それはそれで世界は泡宇宙のように分断されているのだろうか。閑話休題
そこで終風爺が指摘する「あるポジションに自分を置くことで社会が批判でき、解決が主張できるというふうな類型」について、これは推察になるのだが、授業時間とか教育指導要領の問題よりも、純化した教師社会の自己撞着が背景にある気がする。戦後マスコミや教育界が取ってきたひとつの存在類型で、しかしそれは時に戦中派と戦後派であったり、日教組と管理職であったり、様々な様相の錯綜する中で結果的に多様で矛盾に満ちた複数の軸を持つ世界があったのではないか。例えば「ぼくの好きな先生」みたいなアジールとか、幻想だけどね。

わたしが面食らったのは中学に入ったとき、日本史の教師が旧仮名旧漢字で授業を始めたことだ。しかも大和時代やら奈良時代と始めるところを、最初の授業で歴代天皇表を配り、第○代 ○○天皇とやるのである。12月8日には授業を放り出して自分が小学生時代いかに真珠湾攻撃の一報に心を躍らせて興奮したか、ABCD包囲網だの石油禁輸だのハルノートが云々といった話をされて戦後史観の貫かれている歴史教科書を疑うことを覚えた。*1別にその先生の話を鵜呑みにする気はなかったけれども、どうして小学校5年生のときパチンコ屋さんのBGMを運動会の曲で推したとき理不尽なまでに怒られたのかとか、諸々の認知的不協和を解きほぐす過程で、少しずつ分かるようになった。
教育を現場にルーティンとして落とすとき、教科書の内側をのっぺりとした矛盾のない世界に仕立てる必要があるが、そういったフラットな世界観、そして相矛盾しない価値観を持つ先生方の中で、意外と人間は閉塞感を感じるのかも知れない。わたしは政治運動とか国旗・国歌に特段のこだわりを持つ者ではないけれども、様々な価値観の相克が学校から失われたとき、世界の綻びから外に踏み出し、或いは世界の綻びを愛でる好奇心を持つ機会が失われてしまったのではないかと危惧する。たかだか2000人も読まない学校新聞にとっての表現の自由なんて振り返ればコップの中の嵐でしかないが、そういったコップの嵐の中で、身を守るため生徒に嘘をついたり逃げ出す不甲斐ない大人たちと対峙し、ある種の自尊心を獲得する機会はあった。このフラットな世界で、いまの子ども達は僕らより遙かに世界へと開かれた可能性を獲得した一方で、狭い煮詰まった世界で互いの愚かしさに気付き合う機会を失ってはいないだろうか。ネットは煮詰まった世界の擦れ違いに満ちているが、娑婆で立場を超えるのが論破やアウフヘーベンよりも仁義や義理人情であったりすることに気付く機会は意外と少ないのではないか。
ゆとり世代について指摘される言説の何割かは通俗的な自分を棚に上げた安直な若者批判だとして、数%は世界から目に見える分断が失われるなか学校という公共圏の価値が相対化され、理論的な可能性こそ広がりつつも同時に世界の綻びに触れる機会を失われる中、予断と偏見と万能観を抱いたまま社会に居続けられる環境が整備されたことの裏返しなのだろうか。だとすれば授業時間を延ばしたところで元に戻らないだろうし、教育に何かを期待するよりも、そういう世界観のまま働ける環境やシステムが整備されていくのかも知れない。学生にコミュニケーション能力を求める言説の何割かは新たな心性に社会が追いつくことで解消されるのかも知れず、或いは当面は社会が安定しない中、快適な世界から足を踏み出し続けられる者を求め続ける言説としてコミュニケーション能力への神話が生き続けるかも知れない。いずれにしても若い人々は役に立たないことも教えられて馬鹿にされる割に生きづらい世の中になった気がする。それは恐らくチャンスでもあるんだけどね。

*1:わたしは必ずしも戦後史観が嫌いな訳ではなく、いくつもの並行する歴史観へと自分の認識が広がったことについて興奮したのだ。それから学校新聞にのめり込む過程で戦後復興期の若々しい民主主義に素直な憧憬を覚えたこともある。