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日本のソフトは「擦り合わせ」で米国に負けた

ものづくり研究では伝統的に日本が得意とされてきた「擦り合わせ」が、デジタル家電や携帯電話の世界で必ずしも機能せず「ガラパゴス現象」を招いた背景に何があるのだろうか。
しばしばソフトウェアの世界で重層的な下請構造が問題とされがちだが、この構造は雇用慣行や産業構造に起因しており、必ずしもソフトウェアに限ったものではない。例えば昔の繊維産業や現代の自動車も多段的な下請構造を抱えているが、決してガラパゴス化していない。これから述べることは一般論に基づく仮説であり、いずれ実証分析したいので、間違っているところは是非ともご指摘いただきたい。
自動車や家庭用ゲーム機・デジカメ等と比べてガラパゴス化している携帯電話・地デジ・業務ソフトウェア等で共通しているのは、まず機器メーカーが最上位にいないことである。最上位に電話会社・銀行といった大口顧客やテレビ局のような鍵となるステークホルダがおり、主契約企業が下請け企業を束ねている。
そして鍵となるステークホルダの多くは最近まで専ら国内で横並びの競争に晒され、役所による厳しい規制や行政指導を受けている。従ってソフトウェアの領域も含めてコンポーネントの再利用性など技術的な最適化、将来の計画や国際競争力よりも、ステークホルダの意向や微妙な利害調整が重視されがちとなる。
次にソフトウェアが部品単位ではなく人月単位で取引され、プロジェクト毎に縦割りとなりがちなことがある。これは恐らく自動車部品と大きく異なる。半年異なるモデルのソフト開発は別プロジェクトとして組織されてチームは分かれ、ソースコードは分岐し、二度手間三度手間が発生してはいないだろうか。
下請けから元請けへ、元請けから発注元に対して改善提案できる環境にあるだろうか。受発注関係がそのまま上下関係となり、組織の壁を超えて最適化が難しくなってはいないだろうか。部品の物理特性であれば取引上の上下関係があっても客体として議論の俎上に乗せやすいが、表面的には決めの問題となりがちなソフトウェアで、組織の壁を超えた現場から上流への改善提案が受け入れられ難かったのではないか。
さらに本来であれば組織としての生産性に応じて競争力の差が開き、市場機能を通じて調整されるべきところ、製品ではなく中間投入工数に応じて価格が決まる人月モデルでは、生産性が改善したことによって生じる生産者余剰が下請け企業サイドに蓄積され難く、生産性を高めれば儲かるどころか次の仕事から改善された生産性を前提に工数を見積られて自分の首を締めかねない。資本の蓄積が進まず生産性と品質に基づく競争が働き難い環境にあって、地道な生産性の改善を競うのではなく、発注元への忠誠や場当たり的な新技術への適応、人的資本の蓄積を伴わない動員力の競争となっていないだろうか。
本来ソフトウェアは頭脳集約型の産業であり、良好な労働環境を維持して優秀な人材を確保し、目先の片付けるべき仕事だけでなく中長期的な見通しに立った計画的な設計保守が重要となる。パッケージソフトベンダのMicrosoftに限らずハードウェアを売っているAppleや広告で売上を立てているGoogle、本屋のAmazonであれ、ソフトウェア技術者に充実した環境を提供して世界中から優秀な人材を集めている。
コアとなる開発者は正社員として雇用し、技術的な制約条件を踏まえた意思決定に基づく計画的な開発が行われている。そうしなければ品質管理を徹底し、長期的な計画に基づいて製品企画から実装に至る擦り合わせと方針の柔軟な見直しが難しいからだ。
ところが日本では家庭用ゲーム機などの例外を除くと、ソフトウェアはハードウェアのおまけだった。開発の多くは外注に出され、会社組織やプロジェクトの単位で意思疎通は分断されたのではないか。ソフトウェアの開発規模がおまけといえるほど小さく、製品の魅力に大きくは影響しない段階では問題とならなかった。ところが半導体性能の飛躍的向上とクロックの頭打ちによって、大規模なソフトウェアに対して機動的に機能を追加しつつ最適化して動作させる必要に迫られて矛盾が顕在化した。
ソフトウェアの品質と効率がデジタル機器のボトルネックとなったにも関わらず、人員構成やサプライチェーンを見直さなかったために、米国企業がソフトウェア開発の大規模化と要求品質の高度化に直面して「正規雇用に基づく中長期的な視野に立った擦り合わせ型の製品開発」にシフトしたゼロ年代、日本は「非正規雇用と重層的な下請構造による官僚主義と場当たり的な開発」に追われ、その矛盾は発注者から元請け、元請けから下請けにしわ寄せしなかっただろうか。
ここで話は冒頭に戻る。「iPhoneには何も新しい技術要素がない。わが社でも似たような端末は簡単につくれる」と役所に豪語したらしき電機メーカーの重役氏は状況を理解していたのだろうか。その発言そのものが状況を把握できず、相変わらずソフトウェアやエコシステムを軽視した発想が滲み出ていないだろうか。
日本がデジタル家電の時代に負けたのは、それがモジュール化された水平分業の世界で、日本的な擦り合わせが通用しないからではない。既存の雇用を守るためにソフトウェア軽視と外注依存から脱却できず、重層的な下請け構造に頼らざるを得なかった中で、米国企業による「グローバル人材獲得と擦り合わせと改善」に負けたのではないか。この状況を放置すれば遠からず韓国や中国にも同じ理由で負けてしまうのではないか。
斯様に「ガラパゴス現象」は経営者の意識で解決する生易しい問題ではない。そもそも独自性そのものが悪ではなく、利用者に製品の魅力を訴求できていない現実を直視する必要がある。
背景を紐とけば、大企業でなければイノベーションを起こし難い社会構造、国内大口需要家による大規模調達を通じた産業育成、重層的な下請け構造と会社身分制、ソフトウェアの人月契約、司法への依存度が低く硬直的な規範意識、大企業の新卒一括採用と年功制に起因する雇用市場の二極化など、我が国の高度成長を支えた社会構造が裏目に出た非常に根深い問題だ。
解決へ向けた銀の弾丸はないが、まずは「日本の強みは擦り合わせで云々」といった精神論から卒業し、置かれた状況と冷静に向かい合うところからしか議論は始まらない。