雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

英語の敵は刷り込まれた苦手意識

僕は英語が嫌いだ。英語の成績が理由で中学で留年し、高校を中退し、大学受験で浪人し、大学でも留年した。英語に翻弄された人生といっていい。ところが不思議と英語と接する機会はあってWIREDとかBYTEは予備校時代から定期購読していたし、学生時代から仕事で海外取材に行ったり、台湾に仕入れに行ったり、来日しているベンチャーの社長をインタビューしたり、西海岸のベンチャーデューデリする機会に恵まれた。25で外資の日本法人に転職し、去年から上司は米国人、チームの同僚は十数ヶ国に散らばっている。
毎日のように英語を使う仕事になってTOEICのListeningこそ改善したがReadingは相変わらずひどい。うちの新卒採用の世評を聞き「俺、新卒じゃこの会社に入れないじゃん」とか青くなったことも。苦手だからといって逃げる訳にもいかず、拙い英語で日々の業務をこなす。
中学生のころ、どうせ英語なんか使うのは商社とか外務省に入社した一握りのエリートと高を括っていた。ところが浪人時代にネットが爆発的に普及し、苦手な英語を我慢すれば最新のソフトや情報が簡単に手に入るようになった。LinuxFreeBSDも今ほど国際化が充実しておらず、英語で学ぶしかなかった。Javaの教科書だってSDKのドキュメントと英語で書かれたDuke本しかなかった。
教科書の英語は嫌いだったが、自分の気になることを英語で調べるのは苦にならなかった。拙い英語での会話も何とかなる。問題は相手が自分だけに配慮するわけには行かない一対多の関係で、今も大規模なカンファレンスで挙手して質問するのは辛いし、多人数の参加する電話会議でも毎度のように自分の出番がこないよう祈っているくらいだ。
昔の上司の仕事ぶりをみてても、大事なのは英語が流暢で正しいかよりも誰と何を話すかだなあと思う。身近なところで英語の出来不出来と仕事の出来不出来って必ずしも一致しないんだなあと実感できると肩の荷がおりて、必要な程度には英語を使ってやろうじゃんか、という気になった。逆に今の英語教育に問題があるとすると、それほど英語のできる訳でもない英語教師が、自分が日常生活で使っちゃいない英語を教え、教科書通りの杓子定規で採点する。そこで刷り込まれた苦手意識って割と簡単には消えないだろう。
受験で点数をとるための英語と「通じる英語」は、だいぶ別となってしまったのではないか。そう実感したのは中学時代、英語教師の話す英語を交換留学生が理解できなかったのを目の当たりにしたときだ。たまたま壇上で教師はあがっていたのかも知れないし、僕は僕で英語の勉強を厭になって「この勉強は無駄だ」と意味づけしたかっただけなのかも知れない。
ませた中学生の僕が20年前に英語の勉強を捨てたことを、今となってはとても残念に思うし、一方でいま僕が中学生であったなら、当時と違って勉強したいあらゆる知識が英語で簡単に手が入る、例えばBBCPodcastを聞いたり、Google Booksを読むところから、或いはiPhoneアプリをつくろうとするところから、英語に引き込まれたかも知れないなあ。閑話休題
で、通じる英語を話したり書くのは難しくない。問題は中身の方の分かりやすさだ。そもそも分かりにくい議論をされると日本語でも通じないのだから、文法でたらめな「通じる英語」で話されると、それが言語的な問題なのか、意味的な問題なのか切り分けが難しくなるのである。そういう意味で日本のコミュニケーション能力開発って割とホモジニアスな社会を前提としているので、ハイコンテクストで非論理的で分かりにくい婉曲な理屈が多くて理解に難儀するかも知れぬ。
一緒に仕事をしてみると米国人も世評に反して割と空気を読むし、様々な婉曲表現も無難に生き抜く知恵として諸々あるけれども、最初から空気を読もうとしては萎縮してしまうので、まずは割とポライトに接した方が楽だ。しばらく一緒に仕事をしていれば気まずいコミュニケーションも出てくるし、フニャフニャした文面で割と大事なことの書かれていそうなメールをみて、ああ、こういう言い回しがあるのね水くさい、とか思ったセンテンスはとっておいて、自分が逆の立場になった時に使い回してもいいかも知れない。
わたしは日本企業が「使える英語」でコミュニケーションを試みることに割と賛成だ。少子化や教育の問題ひとつ考えても、今後は中国やベトナムはじめアジア諸国と連携していく中でしか持続可能な事業を構築できないだろうし、優秀な外国人を繋ぎ止めるには、経営陣が彼らの論理を理解し、彼らと英語なりでコミュニケーションできた方がいいに決まっている。
グローバル企業の英語というのは「使える英語」しか使えない人々も含めて複雑な議論をすることで、それは情緒やら抑揚やら隠喩だけでなく、理念やら筋道やら論理を積み重ねることが大事な訳だ。「この主張は英訳できるだろうか」とワンクッション置くだけで論理を相対化できるし、そのうち知らず知らずのうちに英語的な論理で物事を考えられるようになる。
とはいえ日本企業で会社の公用語をいきなり英語にするのが正しいかというと必ずしも首肯できない。特に国内小売業がメインという会社であればなおさらだ。英語を義務づけて会社にとってメリットのあるのはシニアマネジメントや国際調整を伴う仕事に限られるだろうし、杓子定規に押しつけても生産性が落ちるだけだろう。また英語で議論を組み立てた場合に、ユーザーサポートなどを考えると、日本の常識から乖離した対応をしてしまうリスクも懸念される。北風よりも太陽というか、社員に対して英語ができることによるキャリアパスの広がりを提示し、同時に英語学習や経験の機会を十分に提供するくらいが丁度いいのではないか。その会社が真に国際化する課程で、同様に現地語と英語との使い分けを悩むだろうし、どういう風であれば日本語の使用を積極的に認めるかについて、いまから悩んでも損はない。もちろん一定以上は英語のできる人材しか採らない手もあるが、言葉は思考パターンや人脈を左右するので、英語が得意でない人材もある割合でいた方が望ましい場合もあるだろう。
さはさりながら英語に対して激しく苦手意識を持っていた私からみても、苦手だからといって英語を遠ざけるのは人生の可能性を著しく狭める。特に日本での新規雇用のパイが限られ、入れたところで上が詰まっている今はなおさらだ。この時代を生き抜く上でも、いちど受験英語で刷り込まれた苦手意識は棚上げして、朝BBC NewspodのPodcastを聞くとか、いくつか英語のブログをRSSリーダーに入れてみるとか、無理のないところから英語を身近に感じ、萎縮せず自信を持てるような入り方ができれば人生の可能性が広がるのではないか。

日本人や日本企業が、ビジネス面でグローバル化する上で、全員がネイティブ並の英語を使える必要は全く無い。
この筆者の言う「通じる英語」が出来れば十分である。
実際に、ネイティブ並の英語の力が必要な段があるなら、ネイティブを活用すればよい。
しかし企業のシニアポジションの大部分が「通じる英語」を話せ、日本語が出来なくても優秀な人材を国内外で雇え、力を発揮させられる状況にしなければグローバルに競争に勝てない時代は、上に書いた分野の多くでやってくるだろう。