雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

三十而惑

自分がこれから何をやって生きていくべきか正直すごく悩む.
5年前に国内ネットベンチャーから外資ソフト会社に転職するときは結構はっきりしていた.役所に予算をつけてもらうためにポンチ絵を描くよりは,邪魔しないでくれと喧嘩する方が道理を通せる気がした.オープンソースだって商用ソフトだって似たような文化的背景を持つソフトウェア工学を学んだ人間がつくってるんだし,その辺の雰囲気を仲立ちできる気がした.セキュリティがもっと大事な問題になることはみえていたから,カーネルレベルや認知論的にどういう技術革新があるか興味があった.
どれも読みは悪くなかったし観察する機会は充分すぎるほど与えられたけど,結局のところ野次馬根性を満足させているだけじゃねーの,みたいな.まあ,見聞きして感じたことをシェアする喜びって大きいんけど,じゃあ自分をジャーナリストとしてポジショニングできるかというと微妙.
結局のところゴリッパな意志とか目標のようなものってなくて,欲望の赴くまま消去法で人生を選んだ.別にそれを後悔する気はないが,これから何十年か衝動と即興だけで妻子を養い住宅ローンを完済して,何か成し遂げることができるかというと,よく分からない.
大人になるって段々と選択肢を失い,自分に何ができないかを気付くことなのだろう.影響力を拡大していくって,段々と柵が増えていくということなのだろう.自由になるって,自分にやりたいことが何もないことに気付かされることなのだろう.恵まれてるって自分の欲望が際限ないことに気付かされることなのだろう.否,そうやって自分の浅ましさに言い訳しているだけなのだが.
僕はこうやってblogで政策を論じていても,自分の思う方向に世界が向かうように豪腕を働かせる訳でもなく,実現可能な政策を提言する訳でもなく,政策の代わりになるような活動を興すわけでもなく,結局のところ評論家としてアレも駄目,コレも駄目,とやっているに過ぎない.それがどう駄目かを指摘できる知性を,きっとその企画をつくった連中だって持ち合わせていて,けれども他に思いつくことがなかったんだろうな,という気もするんだけれども,ぼくは彼らの制約条件を分かっている訳でもないし,彼らの戦っているゲームに乗っかっている訳でもないし,結局のところ評論家に過ぎない.
評論家に過ぎないとしても,自分の考えていることを広く吐き出してフィードバックを得ることは正しい評論のために大事だし,何かを知ろうとしている人々に対しては立場の利害を超えて知見を披瀝したい.そして歯車として時代と噛み合う時,自分に突き付けられる目先の利害ではなく,ステークホルダーと共有した相場観のなかで行動できるようでありたい.
自分に限らず個々人というのは個別にちっぽけで不完全な知識しか持たない存在であっても,ひとりひとりが良心に基づいて行動していれば世の中ってマトモに回るのだろう.どんなに立派な仕組みをつくったところで,誰もが周りに寄りかかって投げやりな決定をしていれば,正気ではないうねりが生じることもあるのだろう.誰かきっと考えてるだろう,というのは危険思想だ.
自分は会社に対するコミットも,政策に対するコミットも,学問に対するコミットも,教育に対するコミットも,言論に対するコミットも,どれも非常に中途半端で,このままダラダラとモラトリアムを続けていると駄目になってしまうかも知れないという危惧がある.一方で,今ここで何かを選ぶほどの確信を何も持てていない.そのうち酔った勢いで大事なことを決めてしまうかもしれないけど,今はみっともないほど逡巡している.ただ社会と様々な接点がある中で,正気な歯車であれればいいなという気概はある.
実際30になってみて三十而立という言葉を噛み締めることがあるのは,段々と僕を育てようという人が減り,僕のいまある姿を所与のものとして物事を頼まれるようになることだ.これから自分が成長するためには,もう自分自身で方向性を決めて意欲を持ち,機会を切り開いていくしかないのだろう.それは自由であり試練でもある.みんなどうしているんだろう.四十而不惑となっていればいいのだが.