雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

論より証拠、そして若者の特権と猶予

まあ似たような読後感は僕も持った訳だが。後藤氏が批判している年寄り論客だって時代を嘆いて無根拠に若者のせいにしているだけで、そもそもの事実認識がワイドショーに歪められている上に、提案は品格云々とか精神論の与太話ばかりだから対案の出しようがない。
それに対して彼の「統計に基づいて議論しようね」という提案は、要は論より証拠って話だろう。とはいえ「最近の若者は」という面々と「最近の年寄りは」という彼とで、どっちも論壇で目立つために若者論をダシにしてる点で同じ穴の狢じゃねーの的なシニカルな見方もできるが。
選挙前で与野党とも青年政策に力を入れているところであり、どの政権であっても厚生労働省なり内閣府は若者政策のネタを探す状況にあって、地道にそういったところへロビイングできるような政策玉を仕込めばという気もするが、論客として認知されるのと黒子になって政策玉を仕込むのと、どっちが彼にとって楽しくて目的に対する早道かは分からない。
年寄りの若者論がエモーショナルだから若者の「若者論」論がエモーショナルになるのは仕方ないし、それは大人が背中を見せるべきところだろう。で、弾さんの論も数多ある若者論と同じように、ターゲティングされた読者層に対して爽やかな読後感を与えるけれども、論拠とか実行までは考えない与太なこともあるよね。ブログだし、僕もだし、それで全然いいんだけど。そういうのをカッコいいと感じると若者もそっちに走るよね。
言論って常にそういうところがあって、政策を論じるなら予算ですか、法案ですか、行政指導ですか、運動ならヒトモノカネどうしますか、といった現実論から遊離したところで、ベキを論じる、それがうまく世界を切り取ってヒトの心を動かせば、影響を受けた別のヒトが動いてくれるかもね、みたいな世界もある。実際問題として多くの読者は世の中の複雑さを斟酌し緻密に計算された言論より、さくっと読めて手短で爽快な言論を求めていたりする。心地よく消費できる論を紡ぐこともひとつの才能だ。
結局のところ本当に世の中を変えたいんだったら、確信犯で与太を書いている時流に乗った論客を刺しに行ったことはお門違いだし、彼が論壇で名を成したいのであればひとつの方法かも知れず。著者として論を組み立てることもさることながら、どう世の中と関わるか試行錯誤するのは全然いいんじゃねーの、若いんだし。いい歳になってもそれじゃ、いずれ敬遠されるだろうけど、それはそれで心地よい井戸とかつくる手もあり。
名声の割に中身のない年寄りの背中を追う時間の無駄とか虚しさを感じたとき、或いは自分が気づいたら若者じゃないことに気づいたとき、その葛藤をどう乗り越えるか、或いは麻痺して甘美な古井戸に閉じこもるかだよね、結局のところ。

確かに、著者による各者の各論に対する批判は間違っちゃいない。ジジババどもの若者論ときたら虚言・妄言だらけだ。それらに「間違っている」と言い返すのも、また間違っちゃいない。
しかし、読者が金を払ってまで読みたいのは、そんなことじゃない。
著者の、論なんだよ。
本書には、それがない。あったのかも知れないが、本書からは読み取れない。

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)