臆病な大企業社員の戯言
リスクテイカー・変革者を評価する文化 / もっとクレイジーにとかクレイジーな思考回路を持つとか,こう知り合いから立て続けに「ソニーやホンダ,アップルやマイクロソフトに入りたいと願うのではなく、そういう会社を自分で作りたいと思うくらいの若者が、もっともっと必要だ」とか「頭が良くて合理的な判断能力が高く、ジレンマを理詰めで解決してしまえる人ほど、実は、長期的に効いてくるようなクリティカルな意志決定は避けてしまっているということだ」とかアジられると,実にゴモットモで立つ瀬がない。
わたしのように妻子だの住宅ローンを抱え,景気が回復しかかっても長期金利のことが気がかりでならず,朝の電車で日経本紙と日経産業をきちんと読まないと気が休まらない小市民としては,だいたい毎日5時間以上は惰眠を貪りながら,自分がリスクを取らない理由を100個ぐらい並べては「石の上にも...」と気弱な笑いを浮かべてヘラヘラしているのである。
わたしだって今の会社に入る前は,個人事業主やベンチャーの社員だった時代がある。仕事をくれていた会社が倒産したり,消費税値上げで潰れかかったパソコンショップのレジの釣り銭からアルバイト料を取り立てたこともあれば,数名〜十数名の会社に飛び込んで1ヶ月会社泊まり込みで焦げた案件の火消しをしたり,そうやって支えた会社がBuy OutしたりIPOするところを見届けたこともある。結婚とはやはり人生の墓場なのだろうか,とか何とか考えない訳でもない。ガキなんか生まれた日には,もう三途の川を後戻りすることさえ難しいのである。
「大手のリーディング企業が破壊的イノベーションに向かないことは、ありとあらゆるケーススタディが証明している」ことは確かだ。自分もだいぶこの目で確認し,絶望もしている。しかし,だ。大半のベンチャー企業だって破壊的イノベーションなんか起こさずに海の藻屑と消えているのであって,その数実に大企業で握りつぶされた破壊的イノベーション(未遂)よりも多いだろう。ベンチャー企業がリーディング企業をひっくり返すことも,リーディング企業で破壊的イノベーションに取り組むことも,実は勝率にそれほどの格差はない。違うとすれば,ベンチャーはハイリスク・ハイリターンで,大企業ではローリスク・ローリターンだ,ということだ。
もっといえば「破壊的イノベーション」という言葉にレトリックがあって,リーディング企業に向かないイノベーションを括って「破壊的イノベーション」と呼ぶとすれば,「大手のリーディング企業が破壊的イノベーションに向かないことは、ありとあらゆるケーススタディが証明している」という言辞がトートロジーであることに気付こう。
いうまでもなくイノベーション,インベンションに必要な研究開発への投資やその普及に大企業が果たす役割は非常に大きく,ベンチャーに対する競争優位性は明らかだ。シュムペーターでさえ,イノベーションの牽引者が余剰資本を持つ大企業なのか,しがらみのないベンチャー企業なのかについて,著書によって揺れた言及をしている。「破壊的イノベーション」がその優位性をもってしても大企業がベンチャーに対抗することの難しい「例外」だからこそ,それにどう大企業が対処するかに関心が集まり,クリステンセンの本が売れるのである。
自分でいうのも何だが,大企業の連中というのはこの手の本が大好きだ。好きが昂じて監訳者や著者を呼んで勉強会を開くと結構な人数が集まってくるし,なかなかクリティカルな質問も飛んでくる。その先コンサルに騙されても傾かない程度に充分なカネも持ち合わせてさえいる。それでも簡単には変わらない,それが大企業というものだ。
でもって,それが破壊的でなくても,イノベーションを普及させようという現場に立ち会えることは,それなりに楽しい。わたしのように捻くれていると,むっちゃ優秀な連中が超高速で空回りしているさまを観察しながら自虐的な悦びに浸り,そこに深淵な歴史的意味を感じることもある。そういう空回りをみると,やはりそれを「イノベーションのジレンマ」と把握することと「イノベーションへの解」に辿り着くこととの乖離を感じずにはいられないし,自分の非力さが身に沁みる。
しかし,堕落したかも知れない自分は,今のところリスクを取ってベンチャーに移り,自分が破壊的イノベーションの担い手となることを選ばずに,大企業で安穏と他人の努力を傍観している。それを悪いことだとは必ずしも思っていない。入社から時間が経つにつれ,周囲の何が自分への評価で,何が会社の看板や肩書に対する評価なのか区別がつかなくなることに漠とした不安を感じるけれども,ここにいて学ぶべきことはまだ残っているし,そもそも人間はリターンのために生きる訳ではなく,ローリスク・ローリターンだから頑張れない奴が,ハイリスク・ハイリターンになったからパフォーマンスが上がるかというと,とてもそうとは思えないのである。それが虎の威を借るかどうかは議論は分かれるけれども,ベンチャーとして世界を変えた連中と同じかもっと,大企業をはじめとした官僚組織から世界を変えた連中だっている。
役人だから世界を変えられる,大企業のお偉いさんだから世界を変えられるという考え方と同じくらい,俺はリスクを取っているから世界を変えられるという考え方だって傲慢だ。偉かろうが,リスクを取ってようが,タイミングだのセンスだの仲間だの因果だのによって,世界は変わったり変わらなかったりするのである。
大企業に入って堕落するようなら,大企業に入らず結果的に堕落しなかったからといって,そう誉められた話ではない。とっとと堕落して,自分を堕落させる世界と,環境によって堕落する自分とを直視した方がよほど有意義だ。そこにだってとても重要な対峙すべき普遍的構造が転がっている。