雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

再定義可能な貨幣と,人間にとっての価値

今日は久々に遅くまで会社に残り,帰りがけの電車で昨日買った『iPodは何を変えたのか?』を読み進めたのだが,池田先生が書いているように,交友関係のひけらかしばかりでなかなか本題に入らないので痺れを切らし,昼休みに紀伊国屋で買った『計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)』に乗り換えた.紀伊国屋では『「最後の社会主義国」日本の苦闘』も買ったのだが,こっちはもう少し落ち着いてから読むことになるだろう.
ところで本を買うって難しい.パラっと読んで面白そうなら買う訳だが,読み込んでみるとつまらないかも知れない.かといって本屋で全てを立ち読みしてしまうと今度は買う理由がなくなってしまう.昔なら本を何度も読み返したのかも知れないが,最近は多忙に感けていちど読んだものを読み返すなんて機会はそうない.あるとしても学生時代に読んだ古典を青空文庫でググって読み返すくらいだ.
出版の世界を少しかじれば分かることだが,本の価格は中身の価値で決まる訳ではない.企画した時の想定発行部数と初期費用から割り出されて決まるだけである.予想より売れなければ版元は赤字になるし,売れたからといって定価を下げる訳ではない.だからたまに予想外のベストセラーが出ると,出版社は濡れ手に粟で自社ビルが建っちゃう訳だ.
それを超過利潤と捉え,情報技術が進歩すればもっとロングテールの方に富を配分できるのではないかと考えるのは一種の公正さに対する感覚であるし,本だって買う段階で情報の非対称性があるのだから,本来であれば器のコストではなく読後の満足度をフィードバックしたかたちで再配分したならば,もっと「買われること」よりも「読まれること」に主眼を置いたコンテンツ制作が行われるのではないかというのは,ひとつの考え方ではある.例えば鈴木健さんのPICSYでは,そういうことを視野に入れている.
僕も学生時代はブラインド署名ベースの電子マネーを使って負の金利を実装する方法とかを考えていたので,PICSYインセンティブモデルを補正する方法を確立することにはとても可能性を感じるのだが,突き詰めると,PICSYのような誘因をファインチューニングする方向で人工的な取引システムによって惹起されるのは,そもそも富がどう配分されるべきかという古典的な問いではないか.
そもそも価格とは行為を促す動機付けであるべきか,それとも行為に対する公正な対価であるべきか.そういった倫理的な問いよりも早くから貨幣も市場もあったのだろう.社会を設計するために貨幣が生まれたのではなく,貨幣的な価値が社会を組織化するように方向づけたのではないか.だから取引システムを通じて社会を変革するというPICSY的なアプローチは自生的秩序ではないが故の難しさがある.NetBSDが,

Some systems seem to have the philosophy of "If it works, it's right". In that light NetBSD could be described as "It doesn't work unless it's right".

と宣言しているのと同じように,人工的な取引システムが何らかの哲学に裏打ちされているとして,それが機能しないならば,拠って立つ理論のどこかに間違いがあるのだろう.人工的な取引システムは興味深い社会実験ではあるが,それが既存の経済秩序と比べて効率的たり得ると確信する根拠は乏しい.但し錬金術と同じように,人々をより正しく動機付け得る取引システムを設計しようという努力は,その野望が実現するか否かに関わらず,様々な派生的取引メカニズムの発明を触発するのではないか.
価値とは何かを議論する上で難しいのは,イディアールな価値を定量的に評価し難いが故に,収益をはじめとした外部からの定量評価を頼りがちであるけれども,では金銭的な成果を出した製品が本源的に価値を生んでいたのか,という点に関して定性的な評価は難しいことである.例えばMicrosoft Windowsは歴史的にみて莫大な富を生んだが,歴史的にXerox AltoやMacintoshよりも価値があったのだろうか.
本源的な価値と,価値の金銭化とは別の尺度で議論すべきだろうし,価値に対して事後的にどう報いるかの公正性について収支に基づくことは一定の合理性があるけれども,収支に応じた対価を従業員に支払うことが発明そのものを担保することにはならないのである.
恐らく価値には,真似できる価値と真似できない価値とがある.真似できる価値とは,有用性が既に確立され,数値化し得る形式知である.真似できない価値とはこれから生まれる新しい価値である.前者は大企業が力任せに追及できるけれども,後者は偶然どこかで生まれるものだ.知識の価値が情報格差に起因すると仮定するならば,実証される以前の発想こそ,純粋な知識としては高く取引されるべきかも知れない.
技術がどう生まれるのか,技術が生まれやすくする管理はどういったものかといったことは,これまで以上に学校で意識されて然るべきだけれども,成果を挙げた先人の足跡をパターン化して現代の様々な問題に当てはめたところで,解けるものも解けないものもある.解けるにも関わらず解く気のない者もいる.それが人間であり,人間社会を今なお生きている者が,新たなロールモデルやライフスタイルを提案できるように成長すべきなんだろうなと自戒する.