雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

堕落した日本のわたし

一昨日だか義母の三回忌で坊さんの説教を聞いたら,昭和20年から日本は駄目になってしまった,戦争に負けて骨抜きにされて精神文化を軽んずるようになったと力説された.今朝テレビをつけたらワイドショーで藤原正彦が国柄とか武士道とか昭和の歌謡曲の持つ普遍性を熱く語っていた.
藤原正彦は1943年生まれで戦中を知っている訳でもなく夢想しているだけであろう.偉そうにしていた坊さんの歳は分らないが概ね似たようなところではないか.ところで藤原氏が物心ついたであろう頃に安吾堕落論を書いた.堕落論が秀逸なのは,堕落こそ個人主義の萌芽たり得ると論じた後で,愚にもつかない「政治による救い」への希求を予見し,切り捨てている点だ.
確かに『国家の品格 (新潮新書)』が200万部も売れたというのだから,この手の反動がひとつの民意なのだろう.昨今の教育再生会議子育て指南など見ても,こういった懐古趣味的なパターナリズムに辟易する.けれどもこれは非対称の民意である.授乳しながら子守唄を歌うとか,小さい子に長時間テレビをみせないとか,あいさつをする,嘘はつかないとか,そういったことを強要されるのは,したり顔で惻隠の情を説く年寄りではなく,爛熟した消費社会に淫し堕落した我々だ.
だいたい子供なんて物心ついた頃から嘘をつき,暴力的で,お調子者である.親に似ただけかも知れないが,少なくとも我が家ではそうである.愚にもつかない嘘をみつけては,嘘をつくことがどう悪いかを説明するのだが,それでいうことを聞くものではない.
だいたい嘘をつかねばならぬような状況をつくるから嘘をつくのであって,そこで嘘をつくということは,やってはいけないことをやっている自覚もあるのだろう.あいさつをしましょう,嘘はいけませんよといって,その通りに育つなら苦労はないのである.そんな当たり前のことにも気付かない連中が,本当に子育てをやったことがあるのだろうか.若かりし日の子育ての苦労を忘れているか,ずっと配偶者に任せていたのではないか.
人間とは弱いものである.僕だって子どもだって政治家だって,嘘をつき,テレビをみて,堕落する.なかなか堕ちきるにも自分自身を発見し救うにも至らないけれども,苦難を懼れつつ堕ちるのである.堕ちながら,そんな資格があるか自問しながら,子どもの前で,上司の前で,同僚の前で,マトモな振りをするのである.或いは周囲がマトモであるかのように振る舞うのである.
いまの時代に限らず,武士道だって,封建制だって,民主主義だって,同じように人間が堕ちるのだという前提のもとマトモであるかのように振る舞わせる装置に過ぎない.近代の教育制度に過去との断絶があるとすれば,工場労働の生産性を高めるために,時間を守るとか人工的な倫理を植えつける必要があったのと,門閥を排し平等という共同幻想を担保するために能力に基づく選抜や教育といった要素が入ったことである.
いま本当に教育を再生する必要があるとするならば,それは家庭の領分だった子育てや躾に踏み込むことでも,学生に進学のためのボランティアといった偽善を強いることでもなく,真面目に教育を受けることの見返りについて信頼を恢復することであり,情報化によって失われた教師の権威を何らかのかたちで立て直すか,権威や権力に依存しない生徒に対する動機付けや統治の仕掛けを再構築することではないか.
ゆとり教育による学力崩壊は,開発主義の克服へ向けた教育政策の再構築にとって必要な過程だったのかも知れない.けれども今進みつつある新しい政策は,堕ちる道を堕ちきりつつあるにも関わらず,自分自身を発見し救うのではなく,上皮だけの愚にもつかない政治への救いを求めているかに見える.

いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった。
(略)
六十七十の将軍達が切腹もせず轡を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。生きよ堕ちよ、その正当な手順の外に、真に人間を救い得る便利な近道が有りうるだろうか。
(略)
戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。(略)堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。