雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

希少性と流動性

最近ちょっと考えるのは,世の中には希少性を念頭に置いた論理と,それとは正反対に流動性を念頭に置いた論理があるのではないかということだ.希少性とは例えばフラれた相手のことを思い出して「こんな素敵なところも,あんな素敵なところも兼ね備えたひとは他にいない!」という発想だし,流動性とは例えば,遠藤周作のエッセイにあった気がするが,スタジアムに何万人ものひとがいるのをみて「ここに何万人のひとがいるということは,彼らの父母がいて,その回数だけのエッチなり恋愛があったということだ」という発想だ.まあどっちも正しいのだが,どちらを念頭に置くかで発想はだいぶ変わってくる.
日本は島国で伝統的には希少性論理がまずある.今なお「余人を持って代え難い」というのは誉め言葉だし,終身雇用,年功序列とかもそういうところからきているのではないか.流動性論理はミクロ経済学の前提としてあって,新自由主義と共にだいぶ普及した.まあ流動性論理の方が進歩的という見方もあるが,フラット化した時代に流動性ばかり標榜しても,おいしいところは全て米国に吸い上げられて終わりではないか,という気もする.
偶有性を尊重し,或る種の島国根性で偏屈なノウハウを蓄積した方が,世界の他のどこもつくれない何かをつくれるかも知れない.もし流動性を標榜するならば,フラット化した世界で競争力を持てるような経済的基礎条件を用意する必要があるが,多くの分野でそれは困難なことだろう.分不相応な成功の後から世界に入ってきた連中というのは,往々にして誤った自己イメージを持って状況をミスリードしてしまう.例えば軍縮条約に反対した戦前の軍部もそうだ.日露戦争での薄氷の勝利を勘違いして,日本を米英と並ぶ大国と考えてしまった.
このところのIT政策の失敗も,根にあるのはそういった肥大化した自己イメージではないか,という気がする.少なくともVLSIくらいまでは,日本は負けるという問題意識から政策が組み立てられていた.今なお負けが込んでいるところで政策ニーズがある訳だが,そこへのアプローチとして,日本は勝てるはずだという根拠なき自信が入ってしまっている気がする.確かに日本にも強いセクターはあるが,そういう連中は最初から政府のことなんか頼らないんだよ,顔を洗って出直して,予算ゴロとは一線を画せよ,と思うのであるが,なかなか実際には難しいのだろう.
米国だって産業振興とはいわないが,軍事とか諸々の名目でソフトウェア技術にかなり投資している.多くのベンチャー企業は,それ自体が技術ベンチャーだったのではなく,軍需からこぼれ落ちて大学に眠っている値をマネタイズする装置としての役割が大きいのであって,そもそも基礎研究への投資が米国よりも小さな日本,しかも学術研究と産業とで人材の流動しない日本で,VCを呼んで会社法をつくっただけで事態が好転する筈がない.ましてやmixiが上場益をどう使えばいいか悩んでいる状況で伝統的な大企業に数億円ずつ投資するだけで何か成果が出ると考えるオメデタサって何なのかね,みたいな.
僕はもうちょっと下の目線から日本のポテンシャルを考えないとまずい気がするし,戦略とはまず自分の弱さと相手の強さとを認識し,そのギャップを埋める狡知ではないかと考える.もう米国の背中を追っても勝てないし,フラットな世界で処を得ることを考えるべき時期にきているのだろう.工業時代と違って,いくら工程を改善しようとも真似ること自体から価値は生まれないし,米国は単に米国ではなく,世界中の頭脳を引き寄せて,新しい仕事の枠組みを生むメタ制度を持っていて,軍事名目で潤沢な基礎研究予算を出している訳だ.
経済的基礎条件でみると日本にとって米国より欧州が参考になるという発想もあるが,コンピュータに関しては欧州も負けが込んでいるので,なかなか参考にしにくいという点はあろう.けれども,置かれている状況は日本に近いし,個別には面白い動きもある.どっちにしても,歴史を知らずに計画を立てたり講演すると,なかなか伝わらないね.当然だけど.どちらにせよ日本はこれから,再び希少性を念頭に置いた政策を取るべきなんだとは思っている.何がきっかけに風向きが変わるか分からないけど,そういうときにフリーハンドで時代の背中を押せる立場でいたいものだ.