雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

幻想を超えて

キャリアって経路依存性の強い問題だから、今のロスジェネが人生を好転させるには、恐らく自力で頑張るしかない。政府は諸々試みざるを得ないにせよ、銀の弾丸はないだろう。では就職に苦労しなかった世代が順風満帆かというと、恐らくそうでもない。今のバブル世代が遭っている苦労に遠からず直面するだろう。中堅層がすっぽり抜けているから入社後に適切な教育を受けられるか疑問があるし、数が多い分ポストの面でも懸念がある。すごくうまくいけば団塊の世代が引退後、戦後の公職追放後のような僥倖があるのかも知れないけど、どうだか。

そして、「いい中学に入って、いい高校に入って、いい大学に入って、いい会社に入るんだよ」と尻を叩かれながら、企業の歯車の一員になった人間をも幸せになるような社会になるように政治家には頑張って欲しいです。

これから取り返しがつくとするともっと先、これから社会に出る子たちをどう育てていくか、何のためにどう頑張るかを、どう再定義していくかだ。一生懸命勉強すれば立身出世が待っているという幻想は明治期以来で、森鴎外も嘆いている。まあ彼の場合いくら与えられた課題を成し遂げたところで、実存の問題は解けないよという贅沢な悩みではあるが。
今の学校教育の設計思想は表向き子供に勉学を教えることが目的だけれども、工業生産性を高めるべく集団行動を身につけさせることがサブスタンスだ。だから学力崩壊していても進級させるし、勉強がそこそこできても和を乱せば放り出される。学制が敷かれるまで、日本で時間を守るという観念がなかったことは『遅刻の誕生―近代日本における時間意識の形成』が明らかにしている。時計は学校と工場と鉄道駅から普及したのである。
これから政治が考えるべきは、我が国がこれから何を目指すかを展望した上で、時代に即して教育制度や労働法制を見直すことではないか。経済が右肩上がりでない上に流動性が高いのだから、努力に経済的成功で報いるという「いい学校へ、会社へ入れば幸せになれる」という幻想は説得力を失いつつある。集団の和を乱さないこと以外に教育で教え込むべきことは山ほどあるのに、視野が狭く真面目な子を育て続けるのは子供と社会に対する裏切りではないか。学力崩壊でゆとり教育が見直されつつあるが、そもそもゆとり教育を何のために始めたかが忘れられ、バックラッシュしているのではないか。
ロスジェネはロスジェネで既に歴史に裏切られているのだから、いまさら会社を信じず、政治家を頼らず、自分の置かれている環境をどう変えられるか、自分の頭で考えることも重要だ。団塊ジュニア世代は人口が多く、彼らの労働生産性を高めることはマクロ的にみて非常に重要だし、これからの政策課題として浮上すること疑いないが、さりとて一括して救うことは難しい。何らかの政策的措置が行われるとして、路を断たれたところに風穴を開けて、少しずつけものみちを増やしていくようなかたちとなるだろう。だから政策や雇用慣行の犠牲者として希望を捨てるのではなく、雌伏のときと思って知恵を巡らせば、報われることもあるかも知れない。

一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜ってからというものは、一しょう懸命にこの学校時代を駈け抜けようとする。その先きには生活があると思うのである。学校というものを離れて職業にあり附くと、その職業を為し遂げてしまおうとする。その先きには生活があると思うのである。そしてその先には生活はないのである。
現在は過去と未来との間に劃した一線である。この線の上に生活がなくては、生活はどこにもないのである。