雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

マスコミから遠く離れて

記者に憧れた中高生の時分『抵抗の新聞人桐生悠々 (岩波新書)』とか読んで時代に流されず生きたい、言論の自由のために闘いたいと思った。次第と大人の世界に巻き込まれるようになって、自由に語り続けるために身を引いたり、物事と関わり続けるために語れなくなったり、そういった葛藤の中で様々な世界との関わり合いがあるんだろうと考え直すようになった。
今なおその葛藤の狭間を漂い迷っているが、日々ブログを書き、それ以上の数のブログを読みながら考えさせられるのは、送り手の立場が特権的な売り手市場のメディアと、ロングテールのブログとで、情報の出し手として何を心掛けるべきか、ということである。今も時に原稿を頼まれるから、何を寄稿して何をブログに書くか、という選択もある。時に原稿の締め切りを過ぎてもブログを更新することがあって、これは一種の現実逃避ではあるけれども、言い訳すれば僕に取ってブログに綴る行為と、原稿を書く行為とは峻別している。原稿は編集者との対話を通じて何を取り上げるべきか検討し、様々な事実や視点を要領よく整理するもので、一方のブログはというと、そこまで整理し切れていない様々な思考経路を発露し、或いは脊髄反射で時事問題に対して綴る場と位置づけている。
悪くいえば書き捨てる文章だから前後比較すれば矛盾していることもある。けれども、なぜ考えが変わったかを可視化できれば朝令暮改で構わない気がするし、その紆余曲折そのものが情報として意味を持つのだろう。コメントとかトラバとかブクマとか、その文脈を相対化する様々な仕組みがあって、はてなの内側では良くも悪くも機能している。それは、ジャーナリズムとは少し別の意味でシビアな世界でもあるが、時に間違え誤り訂正することを恐れなければ、自分の考えや関心を他人に伝えるだけでなく、その可能性や限界を図らずも浮き彫りにしてくれる。
雑誌の連載を書く時なんか、ここ1年どういった話題を取り上げたか吟味して、連続性を持たせたりバランスを取っているが、ブログでは一切そういった配慮はしない。ブログは活字媒体と比べて双方向のコミュニケーションだと感じているので、トラバやブクマ、アクセス数に一喜一憂しながら、その割にマイペースな内容で書き続けている。そうやって段々とはてな村ローカルに収束しているんじゃないかという危惧はあるが、論壇だって学会だって似たような蛸壺はあるのだし、過剰適応さえ気をつければ悪くない気もする。
最近すっかりIT系の雑誌を読まなくなって、せいぜい会社で日経BPの数誌を流し読み、自宅で毎月送られてくるSoftware Designをコラム中心に眺めるくらいだが、文藝春秋とか中央公論は毎月読んでいて、ブログって諸々論じている割に、論調が雑誌とかぶらないのはどういう訳か、とか考えさせられる。最近あまり見ないが切込隊長の文章も雑誌で読むとブログと違って気負っている。ネットが活字を代替しないのって、収益モデルか、ディスプレイの特性か、折り重なった文化か、まだあまり整理できていない。
Web媒体が出始めの頃、事実報道はリアルタイム性の高いネットに移行し、活字は切り口で生き残るんだといわれていたが、気付いてみると逆で、ネットは活字よりずっと多様かつ雑多なオピニオンに溢れ、事実報道はまだ限られている。皮肉ではあるが今なお一次情報の数では朝の電車で読んでいる日経新聞で最も幅広く数多い情報を入手している。この辺は、練られたOPMLとかRSSリーダーにインポートすると違うのかも知れないし、終風氏のように海外ニュースソースをいっぱい読んでいれば違う風景が広がっていそうな気もする。
もちろんWebに於ける編集とかジャーナリズムの価値って、紙の時代と似たような意味でのニュース記事の重み付けも引き続き重要だし、そこは意外と数学的アルゴリズムや経済的インセンティブだけでなく、編集者個人の思い入れや倫理観に依拠するところが大きい。一方で書き手として、ブクマ等を通じた潜在的編集者、RSSリーダ等を通じた自分に対する編集者として、何と闘い、如何に振る舞うかについて、何を気にするべきか、充分には掘り下げ噛み砕けていない。
裾野が広がり過ぎて何も共有し難くなった今日、我々は何をどうやって共有し得るのだろうか、或いは共有すべきなのだろうか。そういう考え自体がネットに没入した視野狭窄なのだろうか。逆にネット時代に押しつけがましいジャーナリスティックな好意は時代錯誤で、孤独な自己選択と群衆行動の曠野でひとり、したり顔で考えたふりする自己満足もまた個別のパフォーマティブな言動に過ぎないのだろうか。
半日RSSリーダーを放るだけで1000件を超える未読アイテムが溜まる中、相矛盾した思い入れは深くとも真偽の定かじゃない様々な捨て身の正義を前に立ち竦み、これらの多くは捨て石かも知れないが、そこまでの情熱を受け止める魔力と、それをロングテールの海に打ち捨てる残酷さとを兼ね備えたネットの混沌に、自分もまた呑み込まれつつある。

ニュース・アナリストの義務であり、権利でもあるのは、知りえた情報と知識をもとに、ニュースの意味合いを明らかにすることだ。出来事の両面を示せ。記録との矛盾点を突け。民主主義では、人々は知るだけでなく、理解することが大切だ。聴取者の理解、評価、判断を手助けするのがニュース・アナリストの仕事だ。聴取者に代わって判断してはならない。

クローバーカードは、ニューヨーク・タイムズの記者出身で報道担当のCBS副社長になったエドワード・クローバーが生まれたばかりのラジオニュースの規範として書いたもの、メディアが変わってインターネットになっても通用する内容ではないでしょうか。

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