雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

感覚の地層

人生の様々な段階で異なる感覚があって後から補正が難しいことがある。例えば僕の場合は飲み代は気にならなくても映画は高い気がしてしまうとか。似たようなところで清濁併せのんできたにも関わらず妙に青臭い主張をするのもあって、これは結局のところ複雑な現実に置かれて高邁な理念との辻褄が合わなくなり、次第に感覚が摩耗した後も当人の存在意義として何かしら理念的なものを必要としている時、かつての理念を塩漬けにした嘗ての理念が時の洗礼を受けぬまま飛び出してしまうこともあるのかなと。
それは文脈から切り離せばあたかもプリンシプルであるかのように響くが、実際のところプリンシプルから程遠い。日常と連続して透徹するからこそプリンシプルなのであって、都合の良いときだけ語られる理想主義って男の浪漫というか無責任なノスタルジアに過ぎない。
政治とは高邁な浪漫と下世話な現実とが交錯するところだが、いまさら止揚しようのない浪漫と現実を抱えつつ如何に現実を動かすかという葛藤にはそれなりの価値があって、いつまでも社会に強い不満を感じながら現実と対峙せず、言葉尻の一貫性ばかり気にしていると、次第に正しいこともいってるかも知れないが周囲が動かないエキセントリックな一言居士になってしまう。
そういうひとを暖かく受け入れ、現実に織り込む多様性こそ社会としてのアフォーダンスではあるが、そういった生き方を選んでしまうことは結局のところ、負けを認めたくない心の奥底で負けを認めているのではないか。それはそれで最初から時代の尻馬を追い縋るよりずっと勇気が必要な営為だし、誰かが引き受けるべき立ち位置ではあるが。