雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

汚れちまった日本語に

やっと『日本語が亡びるとき』を読んだ。結局のところ彼女のいいたいことは「英語の世紀が来たぞ」「エリート教育を復活させよ」「国語教育を教科書の呪縛から解け」ってことか。個人的には賛成。できるもんなら漱石が通った頃のように東大が英語で講義するとか、教授陣は大変そうだけど。しかし本当に良質な情報が日本語で手に入り難くなった。肝心の情報は軒並みブログからのリークで翻訳されなくなったし。会って話すと若い記者の方々とかみんな賢いのに、記事を読むと意味が分からないことが多い。活字の文脈で「みんなのための」と啓蒙主義を掲げることが段々と言葉を形無しにしてしまうのか。けど問題設定と現状認識が古過ぎないか?この本。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

IT系の媒体ってニュースサイトとかBlogとの競合で一般メディアより数年前をいっているけれども、だいたい雑誌の数が減ったし読者層の高齢化が止まらない。わたしもひとりのライターとして活動しているが、ネットと比べて数週間の遅延があると、トップノッチの読者層は最初から対象としていない。ビギナー層の方々に、まちまちな情報を構図に整理して提示する、新入社員向け幕の内弁当を念頭に書くが、それでも平均読者層は30代後半になっているという。若い連中は最初から本屋に通って雑誌を買うって文化がない。エロ本なんかもっと酷くて、完全にディジタルディバイド救済媒体となっているらしい。だから『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)』なんか読むと、エロ業界のためにネットは規制した方がいいんじゃないか、なんて議論も出てくるし。閑話休題
僕は英語の授業が大嫌いだ。英語が理由で中学で留年し、高校を中退し、大学でも留年した。けれども10代学生のうちからBYTEやWIREDといった英字雑誌を読んでライターとして海外の展示会を取材し、今は外資系企業で日常的に英文メールでやりとりし、英語を話さなきゃならないこともある。英語を使うことも苦痛だが、僕がもっと嫌いなのは教条的な教え方と、中身のない例文と、文法偏重の引っかけ問題と、実のところドメスティックな英語教師だ。留学生に英語の通じない英語教師とか、ありえんだろ。
著者の主張するように、ナショナルミニマムとしての英語教育と、世界に出て戦える人々をどう育てるかの議論とは分けるべきだし、本当は抽象概念を扱う高校くらいから学問は英語で学んだ方が絶対いい。少々マセた高校生であればIT Conversationsのpodcastを英語で聞き流し、英語でブログを書いたりメーリングリストで喧嘩する子も出てくると面白い。それが生きた英語力じゃないか。
そういった意味で文部科学省に横溢する平等主義には辟易する。ヤンチャな子ども達にサブスタンスで胸を貸せる教師なんてそんなに多くないから、そういう連中は集めて梁山泊をつくり、貴重な思春期に活字漬けの議論漬けにすべきだ。そしてトップレベルの就職予備校ではなく、組織や国境を越えて活躍できる人材を育て、彼らが決まった組織で目が死んでしまわないように、数年で他流試合を繰り返すようなキャリアパスをつくれるとよいのだが。
これって教育をいじればいいという話でもなくて、結局のところ志ある子達に「どう頑張ればいいの」「頑張って何になれるの」ってロードマップを示すことじゃないか。ぶっちゃけスケールさせる必要のない話であれば教育指導要領を触る必要はなく、私塾で代替できる訳で。教育談義で気に入らないのは功成し名を遂げた人々が自分の思い込みを全国民に押し付けようとすることで、今の時代はあなたの時代と違うし、あなたの人生は普通じゃないんだから、といった諸々をすっ飛ばしてしまう。
文部行政がどう転ぼうが遠からず、教育システムの外側から鬼才が次々と生まれてくるのではないか。彼らは梅田望夫に励まされ、青空文庫で古典に触れ、早熟なブログを書き、最初は翻訳サービス、次は辞書サービスに頼りながら英語の大海に乗り出していく。広辞苑よりもWikipediaを先に触った子達が世に出てくるのではないか。SekaiCameraが大垣から生まれたように、はてなが京都に回帰したように、彼らは希望を失った東京よりは最初からシリコンバレーやニューヨーク、上海、ロンドンを目指し、そして世界的な視座さえ持てば地理は障壁じゃないと地場に回帰するのだろう。これまで都会にいなきゃ中高生が大学の授業を聴講できなかったのが、今やMITはじめ最高の講義がポッドキャストで聞き放題、東京と地方との文化格差は劇的に改善した。
マスメディアの劣化で東京への過剰なアテンションが緩和され、コミュニケーション技術の進化は触発さえネット上で可能とする。東アジア情勢の変化と機会翻訳技術の進歩と普及で、日中韓の壁がこの5~10年でもっと崩れてくる。これらが全て無償で提供されることは、子どもからのアクセスという点で非常に重要だ。競争に勝つための、いい職に就くための勉強ではなく、世界を広げ関わるために勉強する子たちを、どれだけ増やせるだろうか。ネットの大海にあって、2chとニコ動とはてブとモバゲーだけでお腹いっぱいのところ、青空文庫を読み漁り、JPOPの代わりに小難しいポッドキャストを聴き、世界に対して喧嘩を売れる子は育つだろうか。
みんなケータイとゲーム機にしがみつく猿となってしまうのか、それともコンマ数%の突然変異が才能を開花させるのか、それは結局のところ若い人々に開かれた知的な文化を持ったコミュニティをどれだけつくれるか、或いは教養を持ちつつ子ども達と同じ目線で議論できる不良中年が周囲にどれだけいるか、ということではないか。僕の場合は中3の頃、初デートで大杉榮の『自叙傅』の復刻をくれた女性とか、僕の政治談義に付き合って『ヴェニスの商人の資本論』を勧めてくれた学年主任を通じて、自然と休仮名旧漢字や経済学に触れ合う機会が生まれた。皮肉なことに僕は学校新聞にのめり込んで交際相手を見つけ、落第したのだが、その知的背景が占領期の戦後民主化教育の残滓で、たまたま日本語ローマ字化運動の末裔とも知遇を得た。
最適なレコメンデーションとパーソナライズで泡宇宙化したネットの世界に、そういう他者との遭遇とか、触発とか、相互評価を育む小世界が生まれるのか、それとも全てがカーニバル化してネタとして消費されていくのか、そういった文化と人々との交点こそ、文部行政よりずっと重要になるのではないか。それが本当のマジョリティかは別として、今の教科書で学んだって若者がネット右翼になる時代だ。テレビより2chやニコ動、教科書よりWikipediaが影響力を持つ時代には、教科書検定よりページランクがずっと権威を持つ。キーワードやソーシャルグラフの紡ぐ世界で、我々の知は如何に変容するのだろうか。
LiveStationでAl Jazeera Englishを聞き流しながら『あたし彼女。』とか流し読みし、3歳と5歳の息子から「崖の上のドナみせてー」とせがまれた時、僕ら世代は漱石村上春樹を読んでマスコミに憧れ、いまは白痴化するマスと蛸壺化するニッチに引き裂かれつつ悩んでいるけれど、生まれたときからロングテールだった息子たち世代にとって地上波のバラエティ番組とニコ動のMAD動画と何が違うのか、もっとフラットなデータベース上のバラエティに過ぎないのではないか。もはや文化審議会のような国民国家の権威より、検索エンジン仮名漢字変換環境管理型権力が強制力を持つ時代に、天下国家や教育を論じることにどれほどの意味があるのか、とも思う。
だから別に、知識人みんなが読むべき重要な本か分からない。むしろ現在と過去に引き裂かれた過渡期の本で、10年後とか読んでも響かないかも知れない。例えば『貨幣発行自由化論』の冒頭で欧州通貨統合は無理に決まっているというハイエクの縷々とした愚痴が本の価値と信憑性を大きく貶めてしまったように。本当の問題は教育じゃないし、ましてや解決の機会は教育行政じゃないのではないか。本書で論じている国語と国民国家の変容が義務教育の社会的意義の凋落と直結しているのであって、いま考えるべきグランドデザインは戦前エリート教育への復古ではなく、英語の世紀へ向けたポスト義務教育のグランドデザインではないか。活字世代の知識人に警鐘を鳴していただいたのだから、そこから先は我々の仕事かも知れないが。