雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

倫理と帰属意識あるいは世間の再評価

id:kensuzukiに誘われてVCASI公開フォーラムに行ってきた。子供の都合で肝心の第3部には参加できなかったのだが、特に第1部で考えさせられた。忘れないうちに走り書きをしておくと、青木昌彦氏のCognitive Assetsや、瀧澤氏のextended mindアプローチは非常に示唆深かったのだが、特に帰属意識について、もっと触れられてもよかったのではないか。

まず第1部では、集団的認知とコーポレート・ガバナンスの形態との結びつきを理論的に考察し、コーポレーションの多様化を分析する視座を提示する。続く第2部では、コーポレーションの自己統治を機能させる文化や社会規範が、それぞれの政治・社会において形成されてきた過程を、日本・中国・西欧・イスラームを事例に、比較・歴史的な視点から議論する。そして第3部では、こうした議論をふまえ、今日の経済危機や雇用問題をみるとき、いかなる政策的含意が引き出せるか議論する。

コンプライアンス論というとガバナンスの仕掛けをつくって正しく運用すれば不正は起こらないって前提だけれども、実際にはサブプライムのような問題が起こった。これが市場ではなく統治の問題であろうことは、CDSを組成したファンドも、CDSを買い付けた金融機関も、いかがわしいことをやっている自覚があったもののバーゼル2の健全性基準を満たすために低コスト・高格付け債券の量を確保する必要にせまられ、報酬体系や諸々が短期的に成果を出すよう動機付けていた。
いま金融機関のレバレッジを低く抑えようとか議論が出ているが、バーゼル2が非合理的な投機活動を助長したことについて総括を要するのではないか。長期的なパフォーマンスに基づいて処遇することも考えられるが、人材が流動的である場合は難しい。どのような動機付けや規制を行ったとしても、性悪説で考える限り制度や報酬の歪みに応じた部分最適行動を止めることは難しいのではないか。
個々人が何に強い帰属意識を感じ、どういった認知システムを生きるかということが、報酬システムや規制と別に人間を律する仕掛けはできないのだろうか。会社単位の流動性が高くとも、金融なりITといった業種コミュニティに対して帰属意識を持っていれば、その業界での評判といった社会資本や、次の行き先を心配する。誰もが会社・業界・国籍といった様々な集団に所属し、それぞれに対してある割合の帰属意識を感じて経済的・社会的交換を行っているモデルの中で、人材の流動可能性と長期的結果に対するコミットメントとを両立させられないだろうか。
認知システムの神経系として市場メカニズムは非常に重要だが、市場が機能していれば個々人の倫理なりを問う必要はないのだという考え方は危険だ。様々な粒度の社会や組織に対する健全な帰属意識を惹起し、かかる認知システムでフィードバック・ループができることで、ルール化が追いつかない領域での節度ある行動を促せないだろうか。裏を返すと昨今の金融危機は透明な市場と適切な制度が、個々人が倫理を持って行動する必要はないのだという誤ったシグナルとならなかっただろうか。
個々人が様々な粒度の認知システムと接続された状態で行動するということは、結局のところ各人が諸々の世間を意識するということで、それはそれで世知辛い気もするけれども、世間を意識して中長期的な社会資本の蓄積を指向することは、短期的な報酬最大化よりずっとしなやかに様々な利害を調整できる可能性があるのではないか。一歩まちがえれば同調圧力の装置となってしまいそうで怖いが。市場への過信も、制度なり規制への過信も同じように危険で、それらと別に柔らかい上位層で認知や動機付けのための機構が必要なのだろう。もともと機能していたはずの認知システムを構成する人間的紐帯を解いたのが市場への過信なのか、それと別に地域社会の崩壊とか社会的な変化があったのかも気になる。