雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

市民メディアの凋落とマスメディアの憂鬱

わたしも売文稼業の末席を汚しエイャで原稿を書き散らかしては編集部から丁寧な添削を受ける度に感心するクチだから、ネット上の文章について藤代さんが厳しい目を向ける気持ちは分かる。しかし市民メディアは「コンテンツの質が低い」以前に深刻な自己矛盾を抱えているのではないか。既存のマスメディアでさえ、今後もコンテンツの質と威信を担保し続けられるかは疑わしい。

しかしながら、ネット上の言論がこのようなマスメディア批判から抜け出せていないのも現実だ。他人の記事を批判するならまだしも、自らニュース記事を書いて発信するとなると、とたんにハードルは上がる。25日についにオーマイニュースの閉鎖が発表されたが、市民メディアと呼ばれるメディアが広がりを見せないのは、コンテンツの質が低いからに他ならない。

ITのもたらしたチープ革命で表現の場を与えられたにも関わらず、マスコミの権威性に憧れて市民記者を標榜し、けれども充分な編集や執筆指導を受けることもなく、低迷する世の原稿料より更に少額の薄謝しか得られない。誰もが自由に情報を発信できる時代にメディアを標榜したことも、二束三文の原稿料と手薄な編集部でコンテンツの品質を担保できると過信してしまったのは何故だろう。
コンテンツの品質を維持するには大変な手間がかかる。記者を育てる手間、情報源との信用を維持する手間、現場を取材する手間、デスクによるレビューなど品質管理の手間、記事中の事実を確認する手間、何度も校正する手間、プロのライターであっても思った先からブログに書き散らすより何倍ものコストがかかる。
マスメディアが鑑賞に堪えるコンテンツを生み、その費用を回収することができるのは、輪転機や販売網、本社ビルや電波利権といったハードウェアだけでなく、何より長い期間をかけて育てた記者や編集者、彼らの培った幅広い人間関係や取材方法といったソフトウェアの蓄積や、記者クラブ制度などの既得権にある。どだいネットで流通コストが下がっただけじゃ太刀打ちできるはずがない。元記者でさえ組織を離れて筆一本で食っていける層は限られるのではないか。
市民メディアの誤算は、マスメディア的な流儀と記者-読者関係をネットに持ち込んでしまったがために、読者に対してコンテンツの品質に対して過剰な期待を抱かせ、記者に対して誤った自尊心を植え付けてしまい、このギャップが炎上を呼ぶ割に儲からないことではないか。同じ内容であっても掲示板やブログへの書き込みなら、編集コストはかからず炎上リスクも小さいのに。手間をかけて却って攻撃対象にされるんじゃ世話ない。
そもそも記事という様式そのものが、マスメディアの特権性を前提とした間接コストの大きな形式だ。ネットで割に合うのは当事者としての独白や、二次情報としての見立てではないか。個人が個人として背伸びせず語る範囲であれば、手間はかからないし問題も起こりにくい。なまじ素人が気負って書くと、無責任で、高飛車で、突っ込みどころ満載の記事になってしまう。
しかし遠からずマスメディアにとっても、記事という様式は負担の重いものとなるのではないか。このところのテレビ局の不祥事をみていると、明らかに現場を確認せずネット上でググってコピペで済ませて問題を起こす例が増えているように見受けられる。自分で文章を紡ぐ作法を学ぶべき時期にレポートをググってコピペで済ましてきた世代が、マスメディアの現場にも入ってきているのだろう。
社員教育で叩き直すにしても、いちど楽を覚えて泥臭く足で稼ぐ取材に戻れるだろうか。経営が厳しくなれ取材コストの削減を模索する動きも考えられる。新聞よりテレビが先に問題を起こしているのは、いまも社員に記事を書かせる新聞と比べて、テレビは早くから下請けの製作会社に丸投げしており、末端の待遇が悪く製作現場に余裕がないことも一因ではないか。

特オチを恐れて取材先と馴れ合い夜討ち朝駆けに興じるだけなら、政府が大本営発表を直接RSSフィードすればいい。みんなで同じところを取材するからメディア・スクラムになり、取材対象には情が移るしコストばかりかかる。いくら足で稼いで一次情報に触れたって、自分の頭で考えられず、或いは取材対象に気兼ねして本当のことを書かないなら意味がない。
これからも記事はマスメディアが支えるのだろう。しかし当事者が直接発信する一次情報や、専門家による解説記事、報道に対する検証も氾濫する過程で、マスコミ報道の威信は下がらざるを得まい。それほど増えない広告費に対してコンテンツが粗製濫造されれば、ブログであれマスメディアであれ個々の記事にかけるコストは下げざるを得ないのだろうか。否、そもそも日本語人口は増えていないのだし、人間の認知限界も変わらないのだから、チャネルに応じてコンテンツを粗製濫造したところでS/N比が下がってしまうだけではないか。
市民メディアの凋落は表現にとってチャネルがボトルネックではないことを示唆している。読者減と広告出稿減で昔のようには予算をかけられなくなりつつあるマスメディアも、市民メディアと同じ罠に嵌る前に記者の人的資本を活かしつつ効率的で新たな形式を模索せざるを得ないのではないか。Iza!の記者ブログは興味深い先駆事例だ。記者は普段から多くの事実に触れつつ、記事に書けること書けないことを熟知している分、特徴あるブログ記事を書けるのではないか。マスメディアの劣化コピーに過ぎなかった市民メディアは死んでも、ネットに合った情報発信の流儀や形式は模索され続ける。