雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

今週の週刊朝日それから『1Q84』読了。

週刊朝日」を買ったら肝心のコラムは1ページ、これが雑誌のビジネスモデルなのね。『1Q84』も読了。これまだ諸々のことが宙ぶらりんだし終わってないよね。Book 3はいつ出るんだろ。と思ったら、読売のインタビューを読むと出るかも決まっていないらしい。中高時代に村上春樹を片っ端から読んだファンとしては期待を裏切られない出来だったが、批評的には「60歳の作家が35歳のふりをして書いたコスプレ小説」って評価も的を射てはいる。

とにもかくにも、リンク先の記事のぼくへの批判(?)は意味不明すぎます。ぼくの原稿をここで再録できれば話が早いのですが、いま売られている号の週刊誌ですのでそうも行きません。興味のあるかたは該当誌をお読みください。

しかし村上春樹はなぜ舞台を1984年に置いたのだろう。それはオウム的な心象風景を追うには適切な舞台装置だけれど、9.11以降のリアリティとは大きく違うのではないか。しかし、それは村上春樹の仕事ではなくて、僕らの世代から出てくるべき仕事なのか。
ところで村上春樹の小説に出てくる男性の主人公って昔から草食系ってイメージがあるんだけれども、どうして今更になって草食系男子とか騒がれるようになったのだろう。中学で留年したときの同級生が、村上春樹の小説でタイトルをいうと濡れ場の数を即答し「そんなにあったっけ」と聞くとすらすらと「あれと、それと、そう!これ」みたいな感じで列挙してくるので舌を巻いたことがあるのを思い出した。
犯罪者とそうでない人の心性が紙一重だという小説のテーマは、僕がちょうどオウム事件前後の予備校時代に往年のテロリストや殺人犯たちと話し、それから大学に入ってロフトプラスワンに入り浸っていた頃に元オウム信者なんかと問答した時も強く感じたことで、そういう感覚は改めて思い出した。『約束された場所で』も読んだなあ。
本を読んでタイムスリップした気にさせられてしまうくらい、村上春樹オウム事件も僕にとって過去になってしまったし、今やあまりにコンテクストが違ってきている気がする。いい意味でノスタルジアを刺激される一方で、どうしてあんな風に悩んでいたのかなあと振り返っても問題の軸があまりに遠いところにいってしまった。それともどこかでおはらいをされて、天啓のように探すべき何かを思い出すのかなあ。
暗示こそあっても未解決のまま放り出された伏線が多過ぎるし、これから続編が出ることを期待している時点で、作者の術中に嵌っている。読後感は残尿感に満ちているけれど、村上春樹がこの作品で問い直そうとした心性そのものが、この失われた10年の中で忘れられたトラウマで、それは本当にただ時代に押し流されて忘れてしまっただけで、別に克服した訳でもないのだな、とか。心だけ急に昔に引き戻されたように、思考が像を結ばない。