雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

自分自身の職業能力・職業意識の形成過程を振り返る

僕は中学4年,高校1年の計5年間,駒場東邦といういわゆる進学校にいたが,いろいろと大事なことを学んだ.まず,相対的な自分の能力を見極めること.物理部で回路設計やプログラミングを次々とマスターする後輩たちをみて,ぼくは技術そのものでは勝てないと割り切って,技術を生かすことを学ぼうと新聞部の活動に力を入れた.
中学の頃から親父が家に持ち帰っていた日経コンピュータとかを読んでいて,ちょうどBPRとかが流行っていた時期なので,組版の電子化に合わせて業務フローを見直し,入稿から3週間かかっていた新聞発行のリードタイムを3日間くらいまで短くするとか,そういうことをやった.
確か体育祭の特別号で入稿タイミングの都合で自分が記事を書かなくてはならないことがあったのだが,たまたまその体育祭が,生徒が揃った後で雨天中止となったところを,生徒が学校を占拠して臨時放送を流し,校門でピケを張り,自主開催に漕ぎ着けるという面白い出来事があって,体育祭が開かれるまでの経緯をドキュメンタリー調で書いたら生徒からも先生からも保護者からも大きな反響があって,書くことの快感に目覚めた.
自分で記事を書くようになると,顧問の先生が文法的な添削にかこつけて,保身のために検閲していることが気になるようになり,直しようのないほどちゃんとした文章を書く努力をし「これは検閲ではない」という建前を崩さない先生を膝を詰めて議論して追い詰めた.ここでは基礎的な国語力と,大人との喧嘩の仕方が身についた.
英語の成績で留年が決まりかけたとき,他校への転出の決まっていない中学生だと普通は進級判定会議で温情により進級できるのだが,新聞部での活動が悪名高く,反省して勉強する素振りがない,留年させれば少しは大人しくなるだろう,という判断もあって,出席日数が足りている中では初めての留年事例となった.その後は何年かおきに後輩が生まれているようだ.留年して大人しくなるどころか,余計に新聞部の活動にのめりこみ,職員会議で制帽・制鞄の廃止が決まったことを透破抜くなど,スクープもいくつか飛ばした.新聞部を通じて読書家・論争家の友達が増え,難しい本の読み方や消化の仕方は,この時期に学んだ気がする.
高校1年(年齢的には2年)で相変わらず新聞部の活動にのめり込みながら,ファーストフード店でアルバイトを始めたり,NHKの討論番組に出たりしていたら,また留年が決まり,親から「2年も余計に高い学費は払わない」といわれて高校を辞めた.憧れていた新聞関係の先輩が高校を中退して一人暮らしを始め,働いているのをみて,早く自活して自由になりたいと思っていた.最初は親父のツテでIT関係の会社で働くつもりでいたのだが,高校の先生*1の勧めで河合塾の大検コースに通った.
ここがまた面白いところで,現代文の牧野剛先生が畳を敷いて車座で少人数の読書会を開き,そこに鈴木邦男とか塩見孝也がゲストとして出入りしていた.大検はすぐに合格して,これまでの遅れを取り戻して本来の年齢で受験したのだけれども全て落ちて浪人.
浪人時代も相変わらず予備校生らしからぬ生活を送っていた.浪人していた1995年の夏過ぎからインターネットが流行り,僕も秋葉原ぷらっとホームの3Fにできた日立ソフトのショールームに入り浸ってネットばかりしていた.ここでは社員の技術者から色々と教えてもらう代わりに,デモ環境の構築や顧客へのレクチャーを請け負い,IT関連の人脈を広げた.仕事を頼みたい人が少なからずいたのだけれども,ここで仕事を頼むとそっちが楽しくなって受験を諦めるだろうという懸念から「楠が大学に受かるまでは仕事を頼まない」という就職協定が生まれた.
神奈川大学に入って最初の二年は,浪人時代につくった人脈をとっかかりに個人事業主として色んなことをやった.記者志望ということもあってテクニカルライターから始めたのだけれども,読者の興味に合わせるとどうしても最先端の話ができない.次第に武蔵野通研の研究補助とか,情報家電に関する外資半導体会社からの受託調査とか,プロ相手の仕事の方に手応えを感じた.そうはいっても調査が中心で,自分がシステムを実装する気は全くなかったのだが,ビクターの子会社でシステム更新の企画をつくったとき「提案してくれた通りに進めてくれ」といわれては断るわけにもいかず,ベンダ選定から運用保守に持っていくまで,一貫した経験を積む機会ができた.その過程で技術力不足を痛感し,背伸びしないで技術を学ぶにはどっかに所属する必要があるなー,と悩んでいたところを,インターネット総合研究所に拾われた.
翌年に電脳隊に転職しようとしたら「君のためにECサイト構築の仕事を持ってきたのに,もう辞めるのか」と呆れられ,cbook24.comの構築と電脳隊との二足の草鞋を履くことに.ライターの仕事も何本か抱えていたから,学生も入れて当時いくつの草鞋を履いていたか思い出せない.名刺は6枚くらい持っていた気がする.
ずぶずぶとIT業界に漬かりつつも,中学・高校生のとき志していた新聞記者を諦めきれず,大学3年のとき,入り浸っていた新宿ゴールデン街で現役の新聞記者や論説委員に新聞社を受けるべきか人生相談をした.すると「入ったら10年は夜討ち朝駆け,20年もいれば好きな記事を書ける立場になるけど,その頃には自分の頭で感じ,考えることができなくなってるよ」と諭されて,結局は受けるのを止めた.当時,新聞社系の出版社でスタッフライターをしており,お世話になっていた編集長から推薦状を書いてもらう段取りもできてたのだが...
(つづく)

*1:どうもその予備校でアルバイトしていたらしい