雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

学歴社会は終わったけど教育費はかかるし、少子化対策は相変わらず茶番劇だし

尊敬するshi3z社長からトラバをいただいた。いや全く同感である。学歴社会なんて終わってるし、変えなきゃいけないのはみんなの意識なんだ。
ことキャリアプランとか人生設計とかそういう話になると、やたらとコンサバな推計ばかり出てきて辟易するし、僕はそういうのをあまり勉強しないんだが、かみさんはいたく熱心に調べてきて、やれ旦那の小遣いは手取りの1割が相場だとか、いまのうちから学資保険を積み立てろとか、住居費というのは収入のn割までにすべきだがうちはm%上回っているから家計が苦しいとか、子供たちを巣立たせてから老後の貯金を初めても何千万円足りないとか、そういう風に脅かされるのである。僕の場合はあまり後先のことを考えずにできちゃった結婚をして、その後も算盤勘定とか関係なしにボゴボコと3人の子持ちになったのであって、ちゃんと計算に基づいて行動していれば、こんなことにはなっていなかったに違いない。

ところで僕は子供をいい学校に行かせようという考えをあまり持っていない。行きたければ勝手に行けばいいし、学歴社会なんかとうの昔に終わっている気がする。別に血眼になって無理して子供を東大や早慶に入れようという気はない。むしろ、何でもいいから「自分にはこれができる」という自信をどこかで持てるような経験をして欲しい。
中には放っておいても公立校で勝ち上がれる子もいるし、そうでない子もいる。ぼくの子であるから、ぼくと同じように虐められたり、なかなか同世代の子とうまくコミュニケーションできない可能性は高いと思っている。言葉もあんまり早くないし、うまくやっていけない可能性が結構ある気がする。そういう普通じゃない子であっても、排斥されず居場所を与えられるような環境であればいいのだけれども、学級崩壊とかその他いろいろな話を聞く限り、けっこう苦労しそうな気がしている。
振り返るとぼく自身、中学受験の動機は学歴よりむしろ、苛めから逃れることだった。けれどもいい学校に入ったところで、苛めはあるのである。受験で苦労して中学でも苛められたから、もうそれ以来、親のいうことも先生のいうことも信じなくなってしまったけれども、いま振り返るにもし公立校に行っていれば、もっと大変なことになっていただろう。そして何より、いまの自分が中高時代に得たようなプライドを獲得できなかった気がする。
プライドって別に、いい学校を出ているとかそういうことではない。何かを成し遂げたとか、誰かしら評価してくれたということである。僕はあまりに英語ができなかったので中学で留年し高校では中退してしまったけれども、中高を通じて居場所はあったし一目は置かれていた。それは物理部や新聞部での活動であったり、色々な本を薦めたり、議論に付き合ってくれる先輩関係であったけれども、もし公立校にいっていれば、そういう逃げ場もなく、ただただ潰されていた可能性が高いのではないか、って妄想だけど。
下らない話をすれば、中学でワープロ新聞を立ち上げたときには非常に評価されたけれども、実はその前に小学校でも新聞委員会にいて、自分の班だけワープロで新聞を出したら、委員会で顧問の先生も加わって吊し上げられた。曰く、手書きのようなココロが籠もっていないとか、ひとと違うことをやってはいけない、誰もが真似できるとは限らないことはやってはいけない、とか。いまなら笑い飛ばせるけど、当時は意味が分からなかった。
ゆとり教育だ何だといわれているけれども、僕の子供たちが受けることにある公教育は、ぼくが子供だった頃よりも更に荒廃しているのではないかと懸念している。子供たちの間の同調圧力に教師が乗ってしまうのは、それが統治の道具となるからである。そして、階層化が進み学歴幻想がなくなり、子供たちが以前よりも多くの情報を持つようになって、先生が学校の意味を説明し難く、教師としての権威も持たなくなっていることが、学級崩壊などの背景にある気がする。教師が自分で学級を治められなければ、統治の道具たる子供たちの同調圧力に押されて、先生も苛めに荷担したり、見て見ぬふりをせざるを得ない局面は少なくないだろう。ゆとり教育でプレッシャーが減り、雰囲気がよくなって苛めも減るとか、そういう単純な話ではないのである。
うまくいっている学級もあれば、そうでない学級もある。どういうところに行くかは運だ。教員の身分保障によって、塾や私立の学校ならとうの昔にクビになってるような問題教師が、公立学校には少なくないと聞く。嘘であって欲しいが教育委員会の采配で、評判の高い先生を採ろうとすると、抱き合わせで問題の多い先生も押しつけられるような人事さえあると聞く。
親として子供の運が悪かったと気づいたとき、子供が潰されないために逃げ道を用意してあげようとすると、場合によってはカネがかかるかも知れないな、と覚悟している。別に立派な大学に入って立派な会社に就職してくれなんてかけらも思わない。中学留年、高校中退、大学留年した親の子なんだから、色々と紆余曲折があって当然だろうけれども、潰されずに何かしら生き方をみつける機会くらいは与えてやりたい。
心配は杞憂で、いや普通の学校に預けてもどうにかなりますよ、という話だと助かるのだけれども、実際のところどうなんでしょうね。学級崩壊についてはマスコミが煽りすぎている気もするけれども、学校そのものがもともとあまり情報公開をしていないものだから、周りとしては、どうしてもそういうセンセーショナルなイメージを持ってしまう。
例えば犯罪率が極端に増えている訳でもないのに、公共広告機構で「親は遊んでいる子供の側にいましょうね」的な宣伝をしている意味が分からない。そういう脅しも子供を持つことの心理的コストを高めていることに気づいているのだろうか。それとも犯罪防止と少子化対策男女共同参画社会の担当部局が縦割りで、ばらばらなメッセージを出しているのだろうか。地域社会の支えを失い、就業年齢の引き上げで父母の支援も得にくい一方で、子育てに関連した義務や負担はどんどん増えているのではないか。

ところで豊かになると子供を産まなくなるというのはローマ帝国の末期をはじめとして例はあって、収入が増えて娯楽が増えると、子育てなど割に合わなくなるというのは歴史上広くみられる現象のようだ。役所が意識に切り込まない理由は簡単で、成果がみえなくいからだ。減税や手当はいくら実行したか明確な結果が出るけれども、意識を変えようとしても何年もかかるし、その頃には担当者が変わっている。目的に対する結果が出なくても、任期中に何人に対していくらばらまきましたというアリバイ的な成果だけは出しておきたい小役人と、それにつけ込んで実績作りをしたい政治家とが連んでいるだけではないか。こうやって問題を煽っては、成果の出そうもないと素人にも容易に想像がつく政策の並ぶのをみるにつけ、一体この国はどこに向かっているのかと考えずにはいられない。

もっと「幸せのあり方」について多様な価値観を広めなければ、少子化問題の根本的な解消にはならない気がします。
そもそも、自分の子供を産み育てるという人類の尊い使命をカネに換算するなんて、神への冒涜です。子供はどんなに貧しかろうが、また、逆にどんなに豊かであろうが、時間と愛情をかけて一生懸命育てていくものです。
小手先の政策を行うよりもむしろ価値観の変化を促す方が手っ取り早くまた効果的なのではないでしょうか。