雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

いまさらブンカジン1.0を目指す俺がやってきましたよ

売れそうな新書を企画しようと『国家の品格 (新潮新書)』とか『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』とか乱読している訳だが,平易に書きましょう,少々嘘が入っても歯切れ良く書きましょう,分かりやすい物語をつくりましょう,ということはよく分かる.
特に『国家の品格 (新潮新書)』なんか講演録を基に起こしている本であって,居眠りされない話をするにはどういうウィットを挟まなきゃいけないかとか,何か伝えたいことを噛み砕く技法という点では,非常に勉強になった.
こと学術論文であれば反証可能性は大事だけれども,読み捨てる新書や聞き捨てる講演であれば,敢えてハイエクの手のひらを抜け出す必要はないのではないか.むしろ,そういった透明性のために読みやすさや明快さが犠牲にする理由は何もない.
無論ちゃんとした政策提言を出すのであれば,blogや新書でブラックボックス式に流布しやすい言説を撒き散らすだけでなく,議論の前提を定量的に明らかにし,反証可能な論文や報告書なりをこさえた方が良心的であろう.僕が企画している新書については,論旨についてWeb上で検証したり,並行して研究会を準備し,提言の完成度も精緻化していきたい.
しかし『国家の品格 (新潮新書)』は耳心地よい情緒的な主張であって,それ以上でも以下でもないんじゃない.世の中には論理以外にも大事なものがあるという問題提起には共感するけれども,新渡戸武士道を持ち出すのは方法論としていまさらの感がある.独り善がりの老人の与太話だし,消費されることしか考えていないし,講演を聴いたり本を読んでスカッとしてくれれば,彼はそれでいいんじゃない?
国家の品格 (新潮新書)』が品格に欠けるという主張には一理あるけれども,それ自体も織り込まれたパフォーマティブな言説としての完成度の高さにはみるべきところはあるし,伝えようとしている何かがそれなりに大事だったり,多くの人の共感を呼んだからこそ売れたのだろう.
「いいじゃん新書なんだし」という議論にならないのは売上に対するヤッカミなのか,新書も批評の対象になるほどオーサライズされたということか.

そしてグーグルを「アメリカの権化」として礼賛している人々と「国家の品格」は対極にいるように見えるが、前回書いたように「無知」をブラックボックス化してしまう点で双方ともハイエクの手のひらを一歩も出ていないのだ。