総表現社会とは翼賛増幅装置なのか
はて『ウェブ進化論』 については池田先生とか厳しい評価をしていたし『国家の品格』に至っては,肯定的な評価の方が少ない気がするんだが,僕の読んでいるブログに偏りがあるのかな.確かに世の広告ブロガーたちは『ウェブ進化論』に限らず「あれがすごい」「これがすごい」と書き散らしている.けれどもこれは善意に基づく権威主義の増幅というよりは,現実社会でもありがちな見え透いた政治ではないか.
権威あるものを褒めているいる分には,批評や人間関係,評判といった面でリスクが小さく,自分の影響力を高めることができる.無論その逆張りもあって,ドンキホーテのように「王様は裸だ!」と絶叫し,熱狂的なファンをつくるという戦略であるけれども結構リスキーで,知らないところで他人の恨みを買い,思いもよらぬところで梯子を外されたりするようだ.
という訳で,彼が懸念しているように総表現社会とは,多様な意見が一つの意見に集約されていく過程である,という見立ては一面の真実ではあるけれども,それは権威主義が云々といった問題であるというよりは,人間社会に本質的な同調圧力・大衆煽動的な側面について,ブログという道具が加速しているかもね,と理解した方が正確ではないか.
個人的には総表現社会の翼賛増幅装置としての側面を認めつつも,少なくとも商業主義というフィルタが入りにくい点で,ブログはマスメディアよりも健全である気がする.Google八分などの問題があるにせよ,その気になれば何かに批判的な文章や一次資料を探しやすいし,枠や紙面といった制約のない分,マイナーな意見であっても端折らずに扱うことができるからだ.
1人が「『ウェブ進化論』はすごい!」とブログに書くと、他のブログ発信者は「やっぱりあのベストセラーはすごいんだ」と考え、実際に『ウェブ進化論』を手に取り、「確かにみんながブログに書いているように『ウェブ進化論』はすごい!」となる。
(略)
現実に日本のネット社会で起こっていることは、『ウェブ進化論』や『国家の品格』などのベストセラー書評ひとつとっても分かるように、本来多種多様であるべき意見が、一つの意見に集約されていく過程である。玉石混交である以前に、すべての玉がだんだんと真っ白に変色していく過程である。