雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

登山口に辿り着けるかと山を登れるかは別問題

ぼくは小学校の徒競走に始まって,受験戦争であれ,就職活動であれ,僕は横並びの競争が苦手だ.ただ早い段階で,自分の欲望には様々な満たし方があり,世の中にはいろいろな世界があるのだ,ということを早く知れたことは良かったと思っている.
思い返すと恥ずかしいことだが,小学校の卒業文集には弁護士になりたいと書いた.口達者が役に立つ仕事を他に知らなかったのである.中学・高校の頃は新聞社に入りたかった.イデオロギー不在の90年代,新聞社の中ではコトバにいちばん軸と張りがある気がした.新聞記者になりたいという僕に学校の先生は新聞研のある東大か,マスコミに強い早稲田に行くといいという進路指導をしたが,あそこで先生のいう通り奮起していたら,新聞社に入れていただろうか.それが自分にとって幸せだっただろうか.
前のエントリで僕はトレーダーになりたいと無邪気にいった同じゼミの学生のことを批判的に書いたけれども,それは弁護士になりたい,新聞記者になりたいと考えたかつての自分だって同じである.他に自分の内発的満足感と結びつく仕事を知らないのである.たまたま新聞部での執筆活動で書くことに目覚めたり,自分にとって何が楽しいかは手応えを感じてから分かるものだ.誰だって最初は「自分が何をやったら幸せか」について無知なのである.そんな無知な状況で,新卒という極めて画一的なときに一律的な選抜を行うというのは,売り手市場の高度成長期に無邪気な学生を買いたたいた時代の名残だろうか.
折しも世間では人手不足である.片や一流企業には数万人の新卒応募者が並び,中堅中小企業は大学の企業説明会に呼ばれなくなり,一方で数十社の面接に落ちて落胆した学生がニートやフリーターになっていくらしい.正直なところ,厳しい選抜を乗り越えて大企業に行って,そこに幸せがあるのかは分からない.水が合うかどうか,望み通りの仕事ができるかは運だったりするのだろう.やりたいことが決まっていれば,小さな組織の方が身動きを取りやすい場合も少なくない.
自分を振り返っても,弁護士とか新聞記者といった派手な職業に憧れたのは,普通に地味な仕事の中身や,そこにどういう手応えがあるかについて見当がつかなかったからだという気がする.必ずしも本当にその職業の派手さや収入に憧れていた訳ではない.同様に,多くの学生が一部の大企業に集中するのも,本当にそこを目指しているというよりも,無名の企業ではリアリティが湧かないということが大きいのだろう.
もちろん大企業にばかり行列ができる理由を,学生だけに帰するのはアンフェアだろう.未だに新卒採用を偏重する日本の大企業の採用ポリシーの問題もあれば,大企業にばかり強い縛りをかける労働基準法の問題もある.例えば女性が仕事を続けつつ子供を産もうとしたら,かなり会社を選ぶ必要があるのだろう.この辺は理想主義で法律をつくり,余裕のある企業にばかり押し付ける行政の責任もある.とはいえ純粋なミスマッチも少なくないだろうし,中途採用/通年採用の拡大など,試行錯誤しながらキャリア形成していける環境は徐々にだが整いつつある.