雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

再チャレンジできればよいのか

安倍氏支持のグループが再チャレンジ支援議連なるものを立ち上げたという.小泉氏直系の彼でさえ,小泉改革の負の部分についてケアしていきますよという政治的メッセージを発することが戦略的に重要になっているとしたら興味深いことだ.
個人的には再チャレンジできることは極めて重要だし,再チャレンジが容易になるような社会改革が必要と考えると同時に,再チャレンジできる社会にすることによって格差が正当化されるという発想には与しない.なぜなら仕事における賃金格差は能力差の問題であると同時にポストや教育,キャリアパスの問題でもあるからだ.
極端な例を挙げれば,例えば2人の人間がいて能力が同じだったとして,2つの仕事があって片や年収600万円,片や年収300万円だったとする.どちらかは年収600万の仕事に就き,どちらかは年収300万の仕事に就くのである.そして初期状態での能力が同じだったとしても,年収600万の人間には年収600万だったという実績と,その賃金を与えられる仕事に見合った経験がつくのである.
世の中には派手で身につけば潰しの利く能力もあれば,地味で身につけても潰しの利かない能力もある.大企業ではこういったものに対しあまり賃金では差をつけず,適度なローテーションを行うことで,それなりにフェアな処遇をしてきた.成長期には賃金を弾まなくても,やりがいのある仕事で報いることができた.
これからはそうはいかない.地味で潰しの利かない仕事につき,低い賃金を貰うのは本人の責任ということになるのである.そして能力に大きな違いはなくとも,自分で仕事を選べ,これまで高賃金を貰っていたひとが,転職する場合にも経験や実績という経路依存的な属性によって優遇され続ける可能性が高い.
世の中を,そう格差の大きくない仕事に分けることもできれば,二極化した仕事に分けることもできる.受け皿の方が二極化してしまうと,人間の能力が正規分布していてもどちらかに割り振られてしまう訳だ.そして経験や実績といったアチラ側にいかなくては体得できない能力によって差別され,いちど下層にいってしまうと上層へは這い上がりようのない世界が出来上がる.そして運よく上層にいった奴は,それが社会構造ではなく能力差によって齎された結果だという正当化を行うだろう.そして格差社会は人間本来の能力差に起因するという誤った結論が導かれる.
格差社会の問題は,ひとつにそれが経路依存的な能力形成過程で階層間移動を困難にすること,「能力に差があるから収入に差がある」―「収入に差があるから能力に差があるに違いない」という循環論法によって格差を正当化し,能力に差があるに違いないという思い込みに基づいてポストや教育,キャリアパスまでが二極化され,格差をさらに再生産されることである.
転職の自由があったところで,そんな世界を再チャレンジできる社会とはいえない.安倍氏の議連が小泉改革による格差拡大に対するエクスキューズではなく,キャリアパスや教育の問題も含めて本当に再チャレンジできる社会へ向けた制度改革を志向するのであれば,それは素晴らしいことではないか.