雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

前向き貧乏礼讃って時代の流れは何なんだろう

木9ドラマになってるなんて知らずに平積みになってる初版本を買った.主人公の里中ゆいかが上戸彩は違うだろうという気もしたのだが,ドラマのホームページをみると「これもありかな」くらいに理系女子的な無防備さが出ていて萌える.僕の知ってる理系女子って,もっと知性が滲み出ている気もするけど.この上戸彩のメイクとか完全に下北系だよな.原作についていうと,里中ゆいかがサークルクラッシャー化するのを楽しみにしてたのに... 続編とか出ないのかな.

下北サンデーズ

下北サンデーズ

作家志望とか劇団員とかが取り上げられるのって,微妙にNEET論争とかも尾を引いてるのかな.それってすげー全共闘世代が僕らNEET世代を見下していて「お前ら前向きじゃないだろ」みたいな.けど,彼らはビンボーやってたかも知れないけど僕はやってないよな,という引け目はある.結局,少子化とか何とか怖がってるのは,ビンボーを知らない子供たちだからかも.全共闘世代は戦中派から「戦争を知らない」と虐められ,シラケ世代以降は全共闘世代から「貧乏を知らない」と虐められる.どっちも知らないから反駁しない,いっても無駄って感じ.
僕は中学時代,小遣いを本とか文房具に使ってCDとか買わず,両親の持ってるのばっかり聞いていたから妙に懐メロに詳しい.反戦フォークとかだいたい歌えるので,高校時代にたまたま民青の奴と意気投合したときに『戦争を知らない子供たち』とか肩を組んで歌ったり,それは刹那としては楽しいけど,俺はこういうイデオロギー装置には巻き取られないぞと思ったり思わなかったりしてね.けど曲として嫌いじゃないのは微妙に「バランスのよいバランスの悪さ」を感じたからかも知れない.つまり彼らは戦争をネタにすることで戦争の軛から切断され,モラトリアム的反権力の生活観を謳う訳だ.あの手のフォークの,モテるためにデモに参加する感じのユルさは嫌いじゃないけど,問題は僕の生まれた時代じゃ基本的にそういう教養があってもモテようがないということだ.
ところで作家志望にせよ劇団員にせよ,カッコいいモラトリアムではあるが,それってNEETが勇気づけられるとか,そういうことじゃないよね.僕のようなNEETじゃない奴が癒されたり「なーんだ,貧乏でも希望があれば幸せになれるかも」と騙されそうな気がするけど,それはやっぱり騙しでしかない気がする.下北の小劇場に上戸彩がいるかどうかは微妙に怪しい.いや作家志望とか劇団員みたいな人々はどの時代もある割合でいるのであって,それが響くのは夢を諦めた気もするサラリーマンであって,糞詰まっているけど時間のない訳ではないのに何もしないNEETとか,考える余裕も与えられないようなワーキングプアではないのだろう.

下北サンデーズ』を読んで久々に下北に行きたくなり,けど劇団員とかいそうな場所を選ばず静かなスナックに入り浸ってカラオケを歌っていた僕はITギョーカイ的な蛸壺から抜け出る気配などないし,相変わらず貧乏の怖いスノッブとしてイノベーションだの何とか政策といったコトバに踊り続けるんだろうなと鬱になった.
結局のところ選べるんだったら貧乏じゃない方がいいに決まってるし,貧乏じゃない間は貧乏は怖いのだろう.けれども貧乏になってどれくらい不幸なのかはケースバイケースである気もする.ひとついえることは誰もが貧乏に怯えながら貧乏になるリスクに晒されている社会ってーのは,かなり不安定なのかも知れない.少子化って高齢者にとっても若年層にとっても,そういったそこはかとない怖さである訳だけど,作家志望や劇団員のビンボーに共感したからといって,いきなりスローキャリアを実践できるほど人間ってできていない気がする.
いや,別に誰もそうしろなんていってないけど,微妙に仕組まれてるとまではいかなくても,そこそこ可処分所得の高い層の中で,貧乏が怖いけど貧乏になりそうってコンセンサスがある間は,幸せな貧乏というモティーフは受け続けるような気がしないでもないし,その萌芽を『ALWAYS 3丁目の夕日』や『下北サンデーズ』でみた時,彼らにとって怖い貧乏って,全然こういうシチュエーションじゃないよな,という気はした.夢だからこれでいいのか.