運動を遠く離れて
今晩のLife聞きたいけど,こんな時間起きてないよ.ネット中継もいいけどpodcastしてくんないかな.(追記: 楽曲部分を除いてpodcast配信されているとのこと.見落としてました)僕はずっと運動に憧れながら結局のところ何の運動にもコミットできなかった.今となって運動論というより,実存の問題ではないかと振り返る.僕の運動に対する懐疑は大きく二つあって,ひとつは自分が他人に対して何らか無理強いするほど何かを分かっているかという問題と,もうひとつは運動という方法論そのものの時代錯誤に対して運動家が鈍感であることだ.
僕は高校新聞にのめりこんで高校を辞めた口だが,学校新聞を私物化して論陣を張るようなことはやらなかった.僕の仕事は生徒の利益代表として事実を探り,それを伝え,どうしても書きたい所感は所感と分かるよう分けて書く中庸を志向した.それでも多くの教師にとって目障りだったのは,しばしば都合の悪い事実をスクープしたからだが,僕にとっては抽象的なイデオロギーよりも,目の前にある理不尽や情報の非対称性こそ解消すべき何かであって,自分が何か素晴らしい考えを持っていて,それを誰かに無理強いしようと考えはしなかったつもりだ.
1950年代の客観報道論から70年安保前夜の主観報道主義―パトス理論への変遷へ至る戦後の高校新聞史を調べる過程で,多くの歴史的証人と知り合いになった.けれども残念なことに,学校新聞の歴史に興味を持ち続けていた老人の多くは,そこで時間が止まっていた.僕の発表が下手だっただけかもしれないけれども,例えば大学が決まったころ研究会に誘われた折,ネットに於ける言論の自由と1996年米国通信品位法について発表しても,あまり反響はなかった.その後の飲み会で「実は桐生悠々に憧れて」とか話すと,こちらは大盛り上がりする訳だが.
10代の終わりから20代のはじめにかけて,立場の異なる諸々の運動家と込み入った話をする機会に恵まれたが,話していて感じたのは彼らも僕と同じように不確実な世界を生き,自分が何もかもを分かっている訳ではないことを踏まえた上で,betterな世界へ向けて踏み込んだ活動をしたということだ.僕の発想は本質的に小乗であり,彼らのコミットしていた運動とは大乗なり金剛乗なのだろう.
けれども往々にして自分が他人より優れていると考え,或いは周囲を啓蒙したいという発想の根底には,そういった高邁な理念とは別の実存を巡る葛藤がある.そういった実存の問題を抱えている連中に大衆を啓蒙する資格なんぞないんだ,というつもりはない.どんな指導者だって私的には様々な矛盾や葛藤を抱えていることもあるだろう.ただ誰もが自分以上にいろいろなことを感じ,考えた上で,世界を変えようとするのではなくて普通に生きているのかもしれない,という可能性に対する想像力もあっていいのではないか.
対話を重ねるうち,運動家の多くは実際には非常に狭い世界でのファンサービスというかコミュニティ・ビジネスをしているのであって,本当に社会と噛み合う気はないのだろう.それは彼らの実存の問題であり,彼らを崇拝する人々の実存の問題を救っているのだろう,と突き放して考えるようになった.本当に今なお共産主義の理想を追い求めているのであれば,もっとネットでの世界的な連帯を志向したり,フリーソフトウェア運動にもっと関心を持ってもいいのではないかと考えた.一方で政治史を知らず後から台頭してきたネット楽天主義に対しては,終戦直後の戦後民主主義のようなナイーヴな危うさを感じていたが,いわゆる戦後民主主義が朝鮮戦争を契機に変質したのと同じように,ネット上の言論空間も僅か数年で大きく変質した.
僕は結局のところ,政治活動にも,ネット上のムーヴメントにも,影響を受けつつ,絡みつつもコミットしなかった.僕にとっては行動よりも理解が先にあり,もっと理解するために深く関わっていく,自分の考えを押し付けるのではなく,手元にある矛盾を小手先でできる範囲で解消していくことに,快適さがあったのだろう.それは現実主義と言い訳したところで,権力への迎合とみられても仕方のないところもあった気がする.
けだし運動とは何であろうか.システムの外側で真実を叫ぶことなのだろうか.システムに乗って物事を動かそうということは,須く堕落であり機会主義なのだろうか.権力は必ず腐敗するのかも知れないが,官僚の世界にも,サラリーマンの世界にも,革命党派の世界にも,宗派の世界にも,同じように権力構造はあるのではないか.そういった娑婆と折り合いをつけながら,どこまで理想を捨てず自分の世界観を捻じ曲げられずに,視野を広げて,小手先で解ける問題の幅を広げ,諸々の試行を通じて世界を変えようとし,その手応えを通じて世界のカタチを知ろうとしたっていいじゃないか.
それは孤立無援の知的営みで,常に堕落や迎合と隣り合わせであるけれども,窮極のところ,どのような立場にあっても,淫することも闘うこともできることに変わりないのであって,その生き様は周囲の人々から見られて,いずれ歴史の裁きを受けるのではないか.だから周囲の期待を背負って何かになろうとするよりも,自分の知りたいこと,関わりたいことに対して深く関わり得る立場に就き,いろいろと矛盾を抱えながらも,現実や立場や柵と格闘して時代の歯車になろうとすることは,ひとつの生き方である気はする.後ろ指を指されたって全く動じないで理想を追求できるくらいに,自信を持てる仕事をしたい.些細なコンプレックスを仕事の原動力にしていると,目標を見失ってしまうこともあるけれど.