雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

何を何時みせるかは親の権利だが、親にもいろいろ

id:finalventid:dankogaiも立ち位置はかなり近く、子供たちは残酷な現実をいずれ知るべきだが、時期は親が管理してもいいだろうということではないか。であれば有害コンテンツは自民党案のように削除すべきではなく、民主党案のようにセルフラベルを貼るべきだろう。児童虐待コンテンツについても有害と括るのではなく、児童ポルノ法で違法コンテンツと括って削除義務を課せばよい。
悩ましいのは保護者の多くでさえ世界の残酷さを知らないのではないかということだ。僕らは普通に肉を食い、自動車に乗り、米国の核の傘に守られて平和を謳歌しているにも関わらず、屠殺現場も、交通事故現場も、核兵器による惨禍も、なかなか知る機会はない。
これらの残酷な現実を適切なかたちで知れば世界は少し広がって、例えば極端な動物愛護とか、好戦的な政治的志向は減るのではないか。但し残酷な映像は強い刺激となり、思考を麻痺させることもあるので、時に洗脳に悪用することもできるので、注意が必要ではある。
裏を返せば残虐な映像をみせられても簡単には洗脳されない大人を育てるには、どこかでそういった世界に対して免疫をつけさせる必要はある。そして有害コンテンツ規制に対して保護者からの支持が集まりがちなのは、保護者でさえ刺激の強い残虐なコンテンツに対して思考する前に恐怖の感情で反応してしまうからではないか。
民主導のゾーニングを政府が国民的な議論を惹起しつつ適切に支援するのは悪い話ではないが、有害コンテンツなる概念を国が決めて、それに該当するものに削除義務を課すという枠組みは、人間の尊厳や倫理観の多様性を無視した、中央集権的な愚民政策ではないだろうか。子供を守る仕掛けは民主導でつくれるしビジネスになる。様々なリトルブラザーが環境管理型権力を行使することに対して民主主義を通じた監視が必要だとしても、政府がビッグブラザーをつくろうとするのは筋違いだ。
これは消費者保護の議論とも似ているが、技術によって様々なことが可能になったことが、政府の役割や義務に対する過剰な期待となっているのではないか。何か問題が起こるたびに行政は何をしていたのかと憤るマスコミと、責任追及を奇貨に権限拡大を図る役所との共依存のループを、どうすれば断ち切ることができるのだろうか。小泉政権時代の「民にできることは民へ」というキャッチフレーズが、遠い昔のことのように感じる。まあマスコミが視聴者を攻め立てる愚を犯すことはないだろうし、マスコミのせいにすることもまた思考停止ではあるのだが、出口がみえない。

「見せなければならない」かどうかまではわからない。しかし、遅かれ早かれ子どもたちは「残虐」を理解せねばならないというのは確かだ。さもなければ、自らの残虐性に自らが滅ぼされることになる。それに比べたら、メディアで残虐を見せる見せないというのは実に些細なことだ。
そう、本当に理解せねばならないのは、残虐は自らの中にもある、ということなのである。TVで見た、ネットで読んだ、そして自らが体験した残虐の実行者に、自らもなりうるのだということを知ることなのである。

私たちは見るべきだ。
戦争によって犠牲になった沢山の屍体をポルポトが築いた髑髏の山をチェルノブイリの惨劇を水俣病の患者をテロリストの手によって捕虜の首が刎ねられる瞬間をナチスドイツがユダヤ人を押し込めた収容施設で起きた事をツインタワーの崩落の瞬間を餓死を病死者を貧困を。
沢山のうめき声と沢山の泣き声と沢山の血と沢山の屍体を見るべきだ。見なければならない。
そして沢山の「何故」を考えなければならない。

それは、親が子どもを一人前にして世の中に出すとき。
子どもの経験は親のグリップのなかにある。もちろん、徐々に世界や子どもたち自身の世界をひろげていき、最後は親を捨てる。
それと、経験を通して学ぶというとき、言葉から学ぶ。恐怖の感情で反応するより、思考を先にできる子どもに育てる。