平和な街にて
今朝,出かけるためホテルのエレベータを降りたら途中の階で,風呂上がりらしき胸のふくらみかかった金髪の少女とその父親らしき男性が,バスローブ姿でエレベータに飛び乗ってきた。上の階を押すのだがこれは下行き。ホテルの部屋の扉は今時オートロックじゃなくて,カードキーをささないと扉が閉まらない。世界中の大概の地域で日本よりは治安が悪い印象を持つのだが,オスロに限って日本よりものどかだなーと感じた。
ATMで下ろす金額が最初の選択肢で400Knから5000Kn(約10万円)まである。新生銀行が5万円までだが,ちょうど物価も2倍くらいの印象だから辻褄が合う,って単に物価が高いだけじゃん。そう,オスロはニューヨークの約1.2倍と世界でもっとも物価の高い国らしい。世界一男女平等で,労働者の3割強が公務員、平均年収は日本より3〜4割は高いとWebにはある。
こんなに物価が高いと住みにくいことこの上ないが,これは僕が日本から来たからそう思う訳で,ノルウエーに住んでいたら世の中こんなもんとおもうのだろう。バブルの頃,日本に来た欧米人たちも同じように嘆いただろうし。世知辛く生きるのは他と比べるからで,そういうものだと割り切るか思い込めば,人間ってかなりどうにかなるのだろう。だから多くの苦労って周囲なり過去と比べた時の自尊心の問題が大きくて,メディアの発達が人を不幸にしたことがあるとしたら,そういう比較対象までフラットに可視化してしまったことではないか。知らぬが仏なのに。
ところでネットいじめの原因がメディアであるケータイかどうか改めて考えていて,否やはり違うのではないかと考えたのは,ふと大検予備校時代を思い出してからだ。大検予備校ってかなりの吹き溜まりで,いじめられて登校拒否となった子もいれば,いじめや暴力沙汰で放校処分となった子もいる訳で,仮にいじめられっ子,いじめっ子が本人の素養であったなら大惨事になりそうなものだが,不思議といじめはなかった。否たまたま僕がそこではいじめられず,授業をさぼってはデートにばかりうつつを抜かしていて,周囲で起こっているいじめに気づかなかっただけかも知れないが。
ここからは仮説だが,やはりいじめの多くは場のストレスを反映していて,それは小さな虫かごに何匹も虫を入れていれば,じきに共食いしてしまうのと同じなのではないか。近代的な学校ができてせいぜい100年,学校の環境と人間の生理と噛み合っていない方が当然だ。そのうえ昨今は近代化への追随という学校を支えたイデオロギーが揺れ,経済の成熟で学校歴を通じた選別と階層化も崩れ,不安はメディアやネットで増幅されて,先生の権威なんて危機に瀕しているのだ。誰もが捌け口を探しているし,それを止める力が先生には与えられていない。
個人的には少なくとも中学校以上は教導の場から動機付けや交流の場に再編し,訓練や学習は自分のペースで受けられるようにして,学力の担保は共通の卒業資格試験で行えば,ストレスが小さく学力崩壊を招かない学習環境をつくれる気がするし,いじめの出口であるツールを縛ったところでいたちごっこで,いじめを育む内圧を下げるような教学環境の再構築こそ先にあるべきではないか。
追いかける時代は終わったのだから肩の力を抜いて世界を見回し,何が自分にとって幸せなのか,自分で考え,自分で掴み取らなくちゃ駄目だろう。どうせ少子化で進学競争は緩くなるだろうし,モテるための方が意外と競争軸の多元化に繋がる気がするんだよね。そもそも目標設定というか所を得ることから自分で考えなきゃならないところなんか,勉強より実社会に近いんだし。
”当たり前の幸福”は努力の先に無かったということを・・・。
当たり前の青春を、当たり前に楽しく消化していった連中が、当たり前の幸福を得るということを。