雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

チープ革命の逆説

僕は学校新聞で育った。小中高と新聞をやって、のめり込んで中学で留年、高校は中退した。入った大学に新聞会はなかったが、雑誌をつくっているサークルに出入りし、ライターとしても活動していた。ブログという言葉はなかったが、1997年のはじめにはWeb日記をやっていた。コメントもトラバもない平和な時代だった。だから今の子たちがブログとかプロフに悩む気持ちは正直あまりよく分からない。ひょっとすると三輪車で公道に出るようなものではないかと心配になることもある。

ブログのない時代は、表現者であることは、同人誌や地下出版くらいでしか可能ではありませんでしたし、それらは、受け入れてくれるコミュニティも付随していました。だから内輪揉めとかもっと凄惨なこともあったけど、それはそれなりにコミュニティはあったものです。でも、ブログというのは、やってみるとわかるけど、奇妙にぞっとする孤独があるものですよ。それがなさそうな人もいるけどね。

僕にとって新聞部での表現を巡る摩擦とは、生徒会との予算折衝であり、顧問による検閲との闘いであり、親との葛藤だった。表現とは社会的なものだと考えていたし、大人の喧嘩も全て新聞部で学んだ。いじめられて悔しくて泣く相手も、親と喧嘩して家を飛び出し匿ってもらう相手も、新聞部の先輩だった。
先輩は新聞で天皇制批判とかをやっていたが、僕は天下国家を学校新聞で論じるのは嫌いだった。生徒から集めた生徒会費で印刷する新聞だから、生徒の利益代表として活動すべきだと考えた。雨天中止の決まった体育祭で生徒が校門を封鎖して団交を経て決行したのをドキュメンタリー調でまとめたのを皮切りに、校内の放火事件を追ったり、生徒会の悲願だった制帽・制鞄廃止をスクープしたり、引退する名物教師にインタビューで自分語りさせたりしていた。
結局は自己満足に過ぎないにせよ、何か付託された気持ちで打ち込んだ。いろいろな揉め事があって、コップの中の嵐だったにせよ、直面した時は真剣に悩んだ。新聞部には仲間がいて、学校の外にも全国会議を通じたコミュニティ、さらにその先輩を繋ぐ人脈と歴史が広がっていた。当時から歴史好きだった僕は、縮刷版で開校以来の全ての新聞を読んだり、学生運動期の理論誌を研究者から取り寄せて読んだりもしていた。
そういった形式や歴史、しがらみは時に煩わしくもあるが、様々なことに思いを巡らせ、内省のきっかけとなることもある。仲間内という横糸だけでなく、学校新聞を通じた縦糸が、自分を受け入れてくれる少し大人なコミュニティに繋がっていて、そのことが自分をどれだけ励ましてくれただろうか。
記事は足で稼げという鉄則で活動していたし、その主たる舞台は校内だったのだが、学校の枠を超えて社会問題を扱おうと、実際いくつかの高校で共同取材を行ったこともある。結局やってみると、共通記事の配信をしようにも学校によって事情は異なるし、なかなか難しいという話になった。
せめて日常的な学校間の意見交換をするのにパソコン通信のような仕掛けを使えないか考えたのだが、1990年ごろパソコン通信に繋がった新聞部なんてなかったし、そもそも電話代が高かったし、物理部無線班にいたこともあってRBBSという手も考えたが、予算も人的資源もないし、仮にあったところでうまくいかなかっただろう。ASCIIのEditor's Work Benchのことを知ってTeXのマクロで新聞の自動組版をできないかプログラミングの得意な後輩に相談したが、あれはどう考えても無理だった。
あの時代、個々人がネットで繋がれば素晴らしい何かが起こるのではないか、いまは制限があって出来ない諸々のことが出来るようになるのではないか、という期待があった。けれども実際には、昔あった何かでさえ失われてしまっていて、技術の普及って何なんだろう、何を夢見て、どうしてそうならなかったんだろう、ということを考えさせられることがある。
いまどきの高校新聞を僕は知らないので別の例を出すと、それは例えばUNIXに対する憧れである。今は本当に素晴らしい時代で、僕がSuper ASCIIでワークステーションのレビュー記事を指くわえて眺めていた時代には想像できない、超高性能なコンピュータが各家庭にあって、コンパイラカーネルソースコードも無償で入手できるようになった。みんなもっと遊ぼうよ、とか思うんだけど、それは僕が当時NeXTとか渇望していたからそう思うので、いま同じ環境に置かれたら、やっぱり前略プロフとかモバゲーに熱中したのだろうか。或いは今のようにはてなーデビューしていたんだろうか。
カッコウはコンピュータに卵を産む〈上〉』とか本屋で立ち読みして、中学の頃からネットには憧れていた。もちろんWebなんかなくて、自宅から研究室とか地球の裏側にtelnetできて、誰かが不正侵入してくるような世界とか。実際やってきたのは、そういうドキドキもあるけど、もっと人間的でベタな何かだった。
これは僕が単にオヤジになっただけかも知れないけど、道具がどんどん洗練されて、限りなく可能性が広がっているのに、その上で僕らが繰り広げていることは何故かくも低俗なのだろうか。どうして可能性の海に溺れて、何もかも中途半端の半煮えのような感じで放り出してしまうんだろうか。気付くと情報や機会に翻弄されて、考える時間を失っていないだろうか。僕らが望んでいたのは、こんな世界なんだっけ。ネットってコンヴィヴィアリティのための道具じゃなかったんだっけ。
機会はヒトを忙しくする。だから金持ちは忙しい。心を亡くすと書いて忙しいと読む。経済的便益を齎す道具は、何かしら機会を増やしてくれる。静的にはそれがひとを楽にしてくれるようにみえるけど、実はそうやってヒトは忙しくなっていく。メールの返信コストが小さくなれば、日に何十通もメールを交わさざるを得なくなるような悪循環。これは子どもだからじゃなく、人間の性だ。自分だってメール中毒、ブログ中毒で、この間まではmixi中毒だった。まあネットが出る前だって、ゲーム中毒にテレビ中毒、活字中毒とかあったんだろう。
閑話休題。子どもが育つ過程で、どこかしら「受け入れてくれるコミュニティ」って重要だ。昔は小さな世界の中で、コップの中の嵐であれ実存を賭けた闘いがあって、勝ち負けに一喜一憂しながら、少しずつ大人の世界を学べたんだろう。今やクリック一つで全国デビューできるようになって、そういった個々の小さな世界が馬鹿らしくなってもおかしくないような気はする。
Mosaicしかなかった時代、あれをコンパイルしてUNIXからPPP接続とかできれば神だったのが、Windows 95TCP/IPをサポートして、その上でNetscapeが動くようになって、そういう技能をカッコ良く感じられなくなったり。ブログとかプロフといった自分メディアを手に入れた子たちに、学校新聞のようなマスメディアごっこはどう映っているんだろう。僕がいま生きていたら、校内1500人の読者より、ネットの向こうにいる無数の潜在的読者を相手に何かを書こうと思ったんじゃないかな。ブログにも出会いはあるかも知れないし、罵られることもあるだろう。ただ、検閲との闘いとか様々な過程で大人と向き合い意識を摺り合わせる契機が学校新聞にはあったが、ブログやプロフといったCGMにはない。そこにあるのは終わりなきコミュニケーションだ。
学校新聞で鍛えられた僕にとってメディア・リテラシーとは、小さな摩擦の中で先輩たちの背中をみながら顧問の胸を借りて体得するものだった。けれどもブログとか掲示板の世界には、沈黙、対話、炎上といった反応があるにせよ、小さな摩擦を通じて高次の世界観を獲得するプロセスは組み込まれていない。逆説的になるが、学校新聞で個々の記事に教師が目を通して指導し、保身のために赤を入れることは、新聞紙面を構成する費用が十分に高いから成り立つ訳で、全生徒がブログを書き始めたら、それは数の暴力でコミュニケーション・メディアとして扱うしかないのだろう。担任の先生に全生徒のブログを毎日チェックすることを求めるのは現実的ではない。これから求められる可能性はあるけど。
結局のところ大人でさえ、ネットでの人間関係について正しい線引きが出来ている訳ではない。それぞれの世代が、それぞれの文化を当てはめながら、試行錯誤している段階にある。だから、そういった型を持つ前の子たちが最初からネットに触れて、良くいえばデジタル・ネイティブ、悪くいえば動物化することは止むを得まい。
ネットと社会の関係性について成熟していく過程で、どうネットを、そしてネットを使う子ども達を飼い馴らすかという議論が進むのだろう。けれどもそれは、ネット時代にどっぷり浸かっている世代が具体的な悩みに直面しつつ、ネットでの社会性獲得へ向けて何を要し、子ども達にそれをどう獲得させるか試行錯誤する必要があるのではないか。けれども僕でさえ、ネット中毒でこんな時間までブログを更新し、ネットの齎す広すぎる可能性に翻弄されて、大切な何かを見失っている気もする。
ふと考えたのはネットのような時間泥棒は昔からあって、過去と未来との機会費用の歪みに起因しているのではないか。それが僕らをして新技術の社会的影響を過大評価させ、バランスを欠いた行動に導いているのではないか。ネットのお陰で僕の手に入った機会は、僕以外のみんなにも手に入ったところで、基準となる過去のその機会ほどの価値は既に失われているから、常に僕らは失望させられる。けれども心を奪われなければ、我々はヨリ豊かになっていることもまた確かなのだ。