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ブログに「死ね」の書き込みで自殺 周囲や事業者に何ができたか

いたましい事件だ。ネット規制の議論にも影を落とすかも知れず、また、事件の再発防止や、CGMレイティング基準の見直しで議論しなければならない話として、議論を避ける訳にはいかない。とはいえ報道内容から類推できることは限られ、過度に一般化して議論することは危険だし、再発防止へ向けた妙案がある訳でもない。

北九州市の高校1年の女子生徒(16)が、「ホームページに『死ね』と書き込みされた」などとつづった遺書を残して自殺した問題で、福岡県警は1日までに遺書が指摘したとみられるホームページを特定し、「死ね」などほぼ指摘通りの内容の書き込みがあることを確認した。

まず、こういった事件を防ぐことはフィルタリングでは難しい。侮蔑語が書き込まれたからといって、自分のブログへのアクセスまでフィルタリングするのか。そもそもブログなどCGMサイトへの書き込みを全て規制すれば事件が起こらなかったという考え方もあるが、高校生に対してそこまで厳しいフィルタリングを課すのは如何なものか。
キーワード規制でコメント欄への書き込みを制限するとか、実名制とすることで過激な発言を抑止するとか、保護者や教師が普段から監視していれば、途中で仲裁できたのではないかとか、考えさせられることは諸々ある。けれど、どれもどこまで本当に効果的なのか疑問も残る。
ブログに「死ね」と書かれたことが、自殺を決断した様々な経緯の中でひとつの理由となったのは遺書に書かれている通りだとして、どのようなブログで、どのようなコンテクストで書かれたのか、遺書の他の部分にどういったことが書かれていたのか、そういった自殺という悲しい決断に至る経緯や、周囲が兆候に気づかなかったのか、思い詰めるに至った背景など、総合的に捉えていかなければ、全体像を捉えることは難しい。マスコミ報道だけを参考に軽々しく邪推や批判をすることは避けたい。
けれども、子育てをしていれば、小学生や幼稚園の兄弟の間でも、ちょっと喧嘩すれば時に「死ね」といった言葉が出てくるし、その度に厳しく叱るけれども、そう簡単に直るものでもない。高校生でそれはどうかと思うが、はてブ2ちゃんねるをみていると、そういった幼稚な意思表示は、成人してからも少なからずあるようだ。それを真に受けるのはどうかと思うし、どういったコンテクストで真に受け、或いは追い詰められたのか、そうなる前に周囲なりブログをホスティングしている事業者がケアする術はなかったのか、気になるところではある。
ネット規制を巡る与野党協議が大詰めを迎える中、遺書からブログに関連したところだけ抜き出してリークする姿勢に何らかの政治的意図があるのか気になるところではあるが、仮に自民党案のような法規制が導入されたとして、青少年の自殺を防げる見通しはあるのだろうか。必要なのは情報へのアクセスや情報発信を阻害することではなく、思いつめず相談できる逃げ場をつくったり、摩擦を通じて人間関係の作り方を学ぶことではないか。
無論、ネットを規制しても問題解決にならないのだから、事業者は何もしなくて構わないという話ではない。ネット上にであれ、そういった相談の受け皿をつくることはできるかも知れない。ネット上の人間関係の縺れについて、保護者や教師が早く気付ける仕組みも考えられるかも知れない。そういったことは、こういった悲劇を教訓に、地道に議論を続けていく必要はある。けれども、子どもから道具や権限を取り上げれば済むという発想は短絡的だ。
現代の日本で自殺者数に占める青少年の割合は歴史的にも国際的にも非常に低く、むしろ成人してからの自殺者数の割合が高いのであって、親や学校が子どもに関与できる間に、ネットでの交流も含めて、人間関係で思い詰めない術を学ぶ必要は大きいのだから。