雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

限りなくNEETに近い18の夏

本多のおやじさんは通り魔事件のことを知らずに亡くなったのか。アキバに大きなビルが建って、メイド喫茶とかが増えて、ぷらっとホームが閉店した時も時代の移り変わりを感じたけれど、おやじさんが亡くなって、今回の通り魔事件が起きて、ひとつ時代の区切りを改めて強く意識した。
おやじさんに顔を覚えてもらったのは18の夏、ボクは高校を中退して大検を取ったけど、受験に失敗した浪人生だった。勉強そっちのけで分かりもしない現代思想とか読んでニューアカを後追いし、ジャナ専に潜って先生やゼミ生と飲み歩いた。政治の季節はとうの昔に終わっていたけれど、そこには浮ついた白昼夢があった。
高校時代に遠距離だった元カノが大学に受かって上京してきた。「ひとり暮らし始めるから、一緒に家電をみてよ」といわれて新宿のヨドバシとかを回った日、電気屋のテレビで地下鉄サリン事件を知った。ボクは少し前に廃刊になって回収されたマルコポーロを読んでいたから「あれきっと、オウムだぜ」と噂した。元カノがバイトに恋にと世界を広げ、ボクは時代から取り残されそうな焦りを感じた。
PC WAVEのコラムでは仏斎師が「なんか世の中じゃモザイク、モザイクと騒いでいるが、誰がクソ高いニッパッパ(28.8Kbps)のモデムなんて持っているのか」と嘆いてた。アキバの店頭で時折SunやSillicon Graphicsのワークステーションを使ったMosaicの展示をみかけるようになったけれど、バイトっぽい理系の大学生がコンソールで難しいコマンドと格闘しているのをみて憧れつつ縁遠く感じた。
ぷらっとホームの3Fに日立ソフトのショールームができたのは、そんな夏のことだった。コーヒーは飲み放題で、パソコンだけでなくSPARC StationとかIRIS IndyとかMacintoshを自由に触ることができた。時にFree BSDの古場さんがGatewayのHandbook 486を見せびらかしにきたり、細川さんがDECのHiNote Ultraで「gasmは32bitしかないんで脳内アドレス変換で16bitにしなきゃ」と嘆きながらAPMサポートのコードと戯れたりしていた。おやじさんはいつも4Fのパソコンに椅子を置いてソリティアをやってて、顔なじみの客がくると3Fで話し込んだりしていた。正月に顔を出すと関係者で集まって、樽酒やつまみを振る舞ってくれた。
ボクはすぐに入り浸るようになって、スタッフの方から諸々教えてもらいながらパソコンやLANのトラブルシューティングを請け負い、代わりにネットワークの基礎とかを教えてもらった。管理者権限を貰い、様々なソフトウェアをセットアップしてはスタッフの方にデモをした。HotJavaの登場、Windows 95TCP/IPサポートとInternet ExplorerNetscape 2.0でLive Script(Java Script)やプラグイン、Frameのサポート、Future Splash (Flash)、Pointcast、NCompassによるActiveXの前身っぽい何か、次々と出てくるVRMLブラウザとか、毎日のように新しい何かが起こっていた気がする。
ショールームだったから、取引先の偉いヒトとかが時折ネットの最新動向を勉強しにやってくる。ボクが暇に任せて導入した、どこの雑誌にも載っていない新奇なものを見せたいというので、スタッフの代わりにデモする機会が増えた。「謎の予備校生」のことは次第に知られるようになって、アルバイトを頼まれそうになることもあったが大学に受かるまでお預けだった。情報収集に必要と懇願し、メールアドレスはつくってもらった。振り返ってみると、謎の予備校生に対して随分と寛容に受け入れてくれたものだ。
あの頃の秋葉原は自分にとって予備校とか自宅よりも大事な居場所だったし、そこでの様々な人間関係を通じて世の中のこととか人生を巡る悲喜交々を学んだ。大学に入ってから仕事が忙しくなってからも、店に顔を出すとおやじさんは必ず声をかけてくれて、時には近くのドトールでコーヒーをおごってくれた。いろんなひとを紹介され、また彼が間近にみた様々な人々の人生について話を聞いた。
それは高校や予備校が提示するような単線的な何かではなく、成功しても没落することあり、仕事が鳴かず飛ばずでもコダワリや打ち込むことを持っていたり、緩く繋がった仲間達の中で、いま何が面白い?的な諸々のことを披露しあえるくらいに、どこかで何かやってようぜ的な世界だった。本多通商からのおやじさんの人徳で、好奇心を持って変化を受け止める人々が集まっていた。そういう環境に囲まれて、何となくこの世界で生きていけそうな気がした。
アキバ通り魔事件について格差社会と絡めたエントリを書いたことについて、何もかも格差と絡めて一般化することはよくないとか、誰もが仕事を通じて自己実現できる訳じゃないといった指摘をいただいた。その通りだ。時事ネタに絡めて自分の主張を押し出す作法は、ここぞとばかりにゲーム叩きやネット叩きに走る専門家と確かに紙一重だ。それにしても自殺とか大量殺人に走る前に、彼の居場所は見つからなかったのだろうか。
時が経ってぷらっとホームもすっかり普通の店になって、昔は雑居ビルの奥にあったギークの溜まり場みたいな店もすっかり姿を消して、これはアキバが変わったのか、ボクが若くなくなって溜まり場に辿り着けなくなってしまったのかと悩みつつもアキバからは足が遠のいた。たまに行くと駅前でメイド姿のねーちゃん方がチラシとか配っていたり、ホコ天でおかしな踊りを踊っている人々がいたり、すっかり何もかもすっかり変わってしまったなと驚く。
ぼくは面倒な人生とか世の中の矛盾との向かい合い方って、必ずしも尊敬できるとは限らない様々なオトナたちとの緩やかな関係の中で徐々に育まれる気がする。そういうお節介だったり時には煩わしい世間を通じて、誰もが自分の不完全さと折り合いをつけながら、うまくいったりいかなかったりする人生と向かい合うのだろうし、学校を出てしまえば誰も背中を押してくれるとは限らず、ましてや怒っても文句をいってくれるとは限らず、自分の意志で前に踏み出し、自分から諸々のことに気付き反省して振る舞いを変えていかなくちゃいけない。それさえも歳を食うごとに鈍感になっていく。
若いナイーヴな時期って失敗するのが怖いし、自分の殻を破って世界を広げることって難しい。たぶん大学教育の主要な目的のひとつは、自分で自分の世界を広げていくための知的文化的作法を教えることではないか。けれども彼は大学には行かず専門学校で職業教育を学んだ。昔であれば工員には工員のコミュニティがあって、横の繋がりで世慣れさせていく文化があったろうに、小泉改革で生まれた製造業派遣では大量の若手労働者を動員し、彼らに対して精神的な拠り所は何ら用意せず、正社員との身分の違いや高い労働流動性、ヒトと深く関わらずに済んでしまう洗練された分業体制を通じて分割統治することで世間の形成を阻害しているのではないか。
ボクは1995年夏アキバで本多のおやじさんを取り巻く世界を通じて、この業界と関わっていこうと思った。その時はバブル崩壊で景気は悪化の一途を辿っており、ボクは中卒の学歴しかない「謎の予備校生」で、カノジョもおらず、勉強もできず、夢も希望も全くなかったけれど、周りにいる好きを貫き、或いは何となく現実と折り合いをつけているオトナ達の背中を見て、好奇心を持って世の中と触れ合い、肩の力を抜いてヒトと交わろうと思ったのだった。そこには何の保障もないけれど、猥雑な世間の中で何とかなりそうな安心と希望があった。
きっとジタバタする前に自殺とか犯行に走る若者が後を断たないのは、そういう猥雑な世間と接する機会がないこともある気がする。もちろん誰もがフェアなキャリアパスを与えられて、職業を通じた自己実現を実現できるのが理想だとして、今も昔も結果的には誰もがそうできる訳じゃないし、結果的にうまくいった連中にしたってレールを乗って勝ち取ったとは限らない。そういった社会的フェアネス以前のところで社会から切り離され、世間からも零れ落ちてしまっているところに閉塞感があるのではないか。
本多のおやじさんがぼくに与えてくれたことの大きさを噛み締め、居場所をつくるってどういうことだろう、アキバでもネットでも心の拠り所にしていくにはどうしたらいいんだろう、僕らもいずれ世話好きなおやじとして世界のどこかに世間の宿るような止まり木をつくれるのだろうか、といったことに想いを巡らせつつ、改めておやじさんのご冥福をお祈りします。

ぷらっとホーム会長で、東京・秋葉原の「おやじ」として親しまれた本多弘男氏が6月6日、死去した。64歳だった。