批判的批判と建設的批判の彼岸
結局のところ何のために書くか、状況にコミットしようという姿勢を見せるかということじゃね。一方的に決めつけたり否定する、議論に勝ちに行こうとするんじゃ先がないけれど、対話の回路を開いているから次に繋がる訳で、それをネガエンとしか読めない可哀想な人は蚊帳の外だ。
ネガコメが問題なら、ネガエン(ネガティブ・エントリ)はどうだろう。権利者が悪いだの、どこそこの組織が悪いだの、法律が悪いだの、誰それという裁判官が悪いだの、JASRAC が悪いだの、老害は去れだの、山のようなネガティブ・エントリを毎日見かけるんだが、それは問題ではないのだろうか。
対話の余地をどう残していくか、対話の過程で不明瞭なところをどう炙り出していくか、譲り合えそうな落としどころはあるのか、一方で如何に世の矛盾を押し付けられている人々を代弁していくかという文脈を考えて書いている訳で、自分の方が詳しいと思い込んで、単に「俺はこう思う」「あれは駄目だ」と一方的に自分の意見を押し付けるだけじゃ誰からも相手にされないし、物事に対してもっと深く理解する機会も得られず、蚊帳の外のネットいなごから脱皮できないと思う訳ですよ。
ブログって何かについて論じていると、自分よりも詳しい人々が寄ってきて、反論とかトラバを貰うことで物事の違う側面がみえてくる。その過程で段々と物事に対する理解度が深まって、次第に論点や課題が明らかとなり、ツボを押さえた建設的な議論に繋がっていく。そういったことを期待しつつ、批判に対して回路を開きながら率直な疑問を提示していくから面白いのであって、何もかも自分の方が詳しいという前提で切り捨てる議論をしちゃ、そこで話は終わってしまうし、何のためにブログ書いているんですかってことですよ。