雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

ワーキング・プアと失われた「養成」

ひとを育てる余裕がないという話を聞くと、昔はもっと貧しかったんじゃないかと不思議なのである。雇う方も雇われる方も昔と前提が違うのだろう。絶対的な経済水準よりも成長率の問題か。若者に機会を与えるには、市場が成長して椅子が増えるか、古い椅子から先達が立ち去らねばならない。
経済が成熟したのに椅子に居座る先達が多かったから、若者には機会が与えられない。若者に最初から機会を与えず、椅子にしがみつく老い耄れを追い出すために成果主義が脚光を浴びたのではないか。それを大企業の経営者と、最初から機会を与えられなかった若者が共に拍手喝采したとすれば皮肉ではある。
低成長時代にあって「若者には、機会を与え、長い目で見守る」環境を、どうやってつくればいいのか。Excelを使えない派遣社員も、縦書きを読めない若手議員も、結局のところ「人材を使い捨てるだけで育てない」風潮の犠牲者ではないか。若者としては風向きを変えるべく、自分から機会を勝ち取り、長期戦略で生き残るしかないのだろうか。

因みに、「ワーキング・プア」の問題は、「格差」云々というよりは、「人材を使い捨てるだけで育てない」ということである。(略)「若者には、機会を与え、長い目で見守る」。それが養成ということの流儀である。こうしたことが忘れられていないか。

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加

状況に埋め込まれた学習―正統的周辺参加