雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

気が散らないUIって欲しくなる時あるよね

原稿とか構想が全く進まない。あんまり進まないときには現実逃避を始める。で、今日は気が散る理由はウインドウシステムにあるのではないかと考えた。この自分の他責っぷりにも腹の立つところではあるが、久々にエディタとか使ってみて、メニューとかキャプションも消して文章を書き始めると、いささか時代錯誤ではあるが全く気が散らないのである。
MS-DOSの時代、といってもこの時代ぼくはほとんどパソコンを触ってなくて、当時はOASYSだったが、今時のエディタだと真面目にカスタマイズすれば、往時のの日本語ワープロ以上にシンプルな画面とすることが可能である。しかるにマルチウインドウのシステムというのは、マルチタスクの機能性を強調するにはいいが、人間の頭ってマルチタスクにはできていない。否、そういう使い方だってできるのかもしれないけれども、コンテクストスイッチに時間がかかるから却ってスループットが落ちるのである。ここはOSも人間もよく似ていて、リアルタイム性をとるかスループットを取るかというトレードオフがある。自分だと最近はすっかりリアルタイム性に振っていて、メッセンジャーとかメールとかガジェットで頻繁に割り込みがかかって、いろいろ新しいことを知っているようでいて、気づいたら全く仕事が進んでいない。そういう手持ちぶさたの時期もあったってかまわないと思うけれども、そんな時期ばかりでは困るのである。
よくライフハック本とかでメールは一日一回しか読まないといったネタがあって、これは現実に実践しがたいところではあるのだが、一理あることは認めざるを得ない。そのうちアプリ同士がアテンションを奪い合うのではなしに、何か一つのことに集中できる環境が重視されてもいいのではないか。或いは、そういったニーズが根強いからこそテキストエディタのような前近代的な道具が今でも愛され、街ではポメラが売れているのだろう。もうちょっとモダンなかたちで、そういったニーズをすくい上げることはできないだろうか。
いまのOfficeとか諸々のアプリケーションで語られている生産性が、何かをやろうとしたときのクリック数を最小化することに振っているとしたら、ともかく何かに没頭できる環境を提供するためにUIができることはないのだろうか。
画面が十分に大きければ、視野に特定のウインドウしか入らないといった贅沢な使い方もできるだろうけれども、NetBookのようないわゆるミッドディスプレイがこれから重要になってくるとすると、パソコンのマルチウィンドウとも、ケータイのシングルタスクとも違うUIが出てきそうな気がする。まあ、そういった道具頼りの腑抜けた発想が間違いで、本人が修練すればいいのだが。というかまあ普段はブログとかまず横書きで、それも騒がしい画面で書いているだろうけど、たまに縦書きのエディタとかで文章を書くと、だいぶ違った雰囲気に驚きますよ。できればエディタの設定は文字を大きく、フォントは太めの明朝とかにしてさ。Webで読みやすい文章を書けるかというと、却って微妙だけど。