雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

日本経済の全治って何だろう

今月の文藝春秋猪瀬直樹さん等が寄稿しており、高速道路無料化は道路公団民営化の成果を無に帰すものだという批判があった。確かに究極の官営ではあるわな、と納得。ところで公団民営化後も道路建設は次々と復活した訳で、経営規律って何の話でしたっけ?という話もある。高速道路無償化で窓口やらETC関連ベンダーやら、どれだけの雇用が失われるか等。
先の補正では雇用確保に重きを置いたが、雇用ってつくればいいんだっけ。それって裏を返せば、あってもなくても構わない仕事に人材を張り付けているってことだよね。では彼らが仕事を失って、労働者の不足している介護や医療に転職するかというと、そうも問屋は卸さない。短期の仕事を強引に増やしたって、人間のプライドやら想像力って厄介ですよ、と。そういった意味で経済学のトレードオフとは別に、人々の尊厳を尊重する保守みたいな立ち位置はあるのだろうか。
突き詰めると個々の人材が与えられた場の中で真面目に仕事することを信じるか、場を与えなくたって長い目で見れば成長部門への労働移動が起こることを信じるかという問題なのか。どう転んでも器用に立ち回る奴、身分を守られたって無駄遣いやサボったりする奴、場を失えば本当に失業しっぱなしになる奴とかいるんだろうが、やってみなければ全体がどんな塩梅かは分からないし、失敗に気づいた段階では手遅れかも知れない。
社会保障政策としては労働移動を促しつつ、零れおちた人々をセーフティネットで救うとやらが模範解答っぽいが、公務員の身分だけ保障しつつ、政策関連で雇用の支えを外すことが道義的に許されるだろうか。わたしは解雇の金銭的補償とセットでどちらも流動化すべきと考えるが、労組の支持を受けている今の民主党には難しいだろう。
実際やってみなければ分からないし、やって駄目でも元に戻らない話だが、マニフェストを比較してどう考えろというのだ。実際には雇用やら長期金利を睨みつつ臨機応変にバランスを考えるのが政治であって、マニフェスト通り杓子定規に解釈されても困るのですよ。そこが公共事業やらへの可否だけで議論できる県知事とは大きく違うところで、国政にマニフェストは似合わないのではないか。
景気は循環するし屑鉄やらの値段は回復するのだろうが、全治という表現は誤解を招く。これから伸びる領域もあれば、落ち込んだままの領域もあるだろうし、全治=古き良き時代が戻ってきて再び成長へ!という話ではない。そういった意味でも成長の果実をどう付け替えるかが政治だった季節は終わったのに、各党ともバラ色の未来ばかり語って信頼を失っているよね。もうちょっと真面目にシビアなトレードオフを国民と共有する姿勢が求められているんじゃないかな、この政局じゃ難しいけど。