雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

差別的な親心に就いて

僕は個人的には、自分の息子達に対してフィルタリングを設定する場合に、同性愛を規制すべきとは思わない。けれどフィルタリングの根拠を親権の求めるならば、親の持つ差別なり偏見がフィルタリングの設定内容に及ぶことは避け難いのではないか。

IMJの分析は「親子の意識差」に焦点を当てているのだけれども、絶対値でみても同性愛を規制が必要と考える親は87.8%と、かなり高い値となっている。ほぼ同水準がギャンブル(87.9%)で、成人娯楽、グラビア、グロテスク、オカルト、宗教といたあたりがこれらより若干低い。

同性愛を忌避する親が我が子にそういったコンテンツを見せない措置をすることを批難する理屈は立て難い。それが差別感情の発露だったとしても、親にはその権利があると考え得るからだ。社会的に同性愛の法的地位を高めるべきだが、我が子に同性愛者であって欲しくないし情報を遮断したいという親の立場は、政治的に正しいかは別として認められるべきである。それは内心に踏み込めば差別である蓋然性が高いが、いわゆる社会的な差別とは峻別すべき問題だ。
即ちこの問題は、移動通信事業者がフィルタリングの初期値で、同性愛をフィルタリングすることの政治的公正さとは本質的に異なる。移動通信事業者のサービス提供内容は公の問題だが、親が子に対してどのようなコンテンツを規制するかは私の問題なのである。かかる現実に直面して、フィルタリングそのものを差別感情や偏見を再生産し、社会の矛盾を隠蔽する装置なのだと批判することもできるが、民主主義国家と家庭との関係にまで踏み込んでしまうと別次元の議論を惹起してしまう。
そもそもフィルタリングを、コンテンツ事業者の自主規制という枠組みで捉えるか、親権の代理行使という枠組みで捉えるか、政府による規制手段として捉えるかによって、自ずと見えてくる光景は異なるのではないか。私はセルフラベリングはコンテンツ事業者の自主規制で、最終的には親権の行使を補助するものと考える。従って一律に同性愛関連コンテンツを規制することに問題はあるが、同性愛関連コンテンツを識別するラベルを定義することは容認され得るという立場を取る。同様に異性愛を扱うコンテンツを識別するラベルを定義する必要もあろう。同性愛関連コンテンツに対するフィルタリングは、政府による規制手段と捉えれば政治的に問題があり、親権の代理行使と捉えれば一定の合理性があると考えられる。
親が子供に対してどこまで自身の価値観を押し付け得るべきかについて社会的コンセンサスを形成することは重要だが、これはフィルタリングの在り方と切り離して議論する必要があるだろう。フィルタリングの政治的正当性を問題にする場合は、例えば携帯フィルタリングに於けるドコモの設定といった、公的に説明責任を求められる領域に限定しなければ、議論が発散してしまうのではないか。
もちろん個々の親が我が子のネットアクセスに対するフィルタリングをどう設定すべきかについて、それぞれの親の価値観・倫理観と社会に於ける政治的公正さとの兼ね合いを踏まえつつ、同性愛カテゴリの扱いを含めて検討することの意義が大きいことは論を俟たない。