雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

フラットな世界が脱童貞を阻害する

中学の頃からデートはしてたけれど僕の立ち位置は3か4。校内では4(被攻撃層)で、社会的には3(鬱屈層)って感じかな。あの時代にネットがあったら僕も暴れていただろうなあ。けれどもネットじゃなくて、高校新聞で本当に良かったと思う訳ですよ。
ネットやってたら自分のやりたいことだけで引きこもっていたところが、狭い校内で記事を直せとか出すなとか、予算をどうするとか、文具屋に広告を取ってきたついでに棚卸しのアルバイト斡旋を頼まれたり、好きなことを続けるために生徒会や教師、他の部員たち、地域社会との接点ができたり、経営とか人間関係の基礎を嫌でも叩き込まれる訳。異性との接点もできたしね。

モテ層の男子が人生初めてのデートなんかを経験するこの頃、3と4の非モテ層に属する男子達は、溢れる自己顕示欲を抑えつけられ、好きな女子のことを思っては、マクラを濡らし、パンツを汚すわけですよ。
(略)
で、ネット上に物騒な書き込みをしちゃう中高生の男子っていうのは、僕はこういう層だと思うのですね。昔からこういう非モテ層っていうのは抑圧された自己顕示欲に悶え苦しんでいた。そういう欲を満たす場として、インターネットという「場」が与えられたに過ぎない。僕が中高生だった頃にwebがあったら、僕もフラれた腹いせに中傷書き込みとかなりすましとかしてそうだもの。考えるだけで恐ろしい。あの頃webがなくて良かった。

ネットってすごく危険だと思うのは、協働しなくても色んなことができてしまう訳だ。例えばはてなにブログを開設するなんて、誰とも相談せずにすぐ始められる。ネット上での闊達な議論とかもあるけれども、それってテキストばっかりの応酬でエスカレートしがちだし、人間の発想とか納得のエモーショナルなところは学びにくい。はてなの場合は特に、活字とかの世界でそういう表現や論理の身体感覚を鍛えた人々が、余興でブログにも書いているみたいな場合が多いんで、それってはてなの中だけで研鑽したって、なかなか追いつけないんじゃないかな。2ちゃんねるとかmixiには、あまりそういう非対称性はない。
当たり前のことだけど中高生にとってモテって自分の実存にとって非常に重要なことで、モテるためだったら人生観だって読書や音楽の趣味だってコロコロ変わっちゃうのである。いや別に相手に合わせるって意味じゃなくて、子供なんて基本的に視野が狭いのであって、そういう他者との交わりの中で食わず嫌いを克服して、世界に対してひとつひとつ発見していくんじゃないかな。僕にとって、自分の人生を自分で決めていくとか、小説を読むようになったり、社会学を勉強したり、戦前趣味とかも、結局のところ付き合った女の子と話を合わせるためだったりする。契機はそうかも知れないが、今となってはそれらが自分の思想や実存の骨となり肉となっているのである。
あの時代の自分ってホントの童貞力ってか、馬鹿に自尊心が強くて空気が読めなかった。毎度デートの度に僕を言い負かす2つ年上の文化系女子を相手に、今度こそ言い負かしてやろうと乱読した。今にして思えば反論に反論を重ねるんじゃなくて優しく共感して受け止めてあげれば、もっといいところまで行ったんじゃないかと思う。思い出せば思い出すほど戦術的には後悔があるのだが、そういう不器用な人生の中で、様々なものに触れて、自分自身の引き出しを増やしていくことが、あのとき渇望した彼女を器用に手に入れたより、結果的には人生に資するところがあったのではないかと納得している。
僕の童貞力っぷりには予備校で教わった鈴木邦男も心配していたらしく『テロルの決算 (文春文庫)』を勧めてくれて、世の中はかくも複雑なんだから、決して早まるなよとか諭してくれた。あの頃ちょっとした縁や契機があれば、何かしでかしていたかも知れない。だからネットで欲しい情報や気の合う相手が簡単に手にはいるようになって、行きがかりで様々な別の価値観と触れ合う機会が結果的に減ってしまうとすれば、危なっかしい子が増えるだろうし、簡単に一線を踏み越えられてしまうだろうなって悩む。あまりに童貞的な食わず嫌いを克服できる契機を、うまく状況に埋め込めればいいのだけれど。