雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

傀儡の第三者機関じゃ戦前の言論報国会の二の舞

気づいたら前エントリで引用した読売の記事は削除されていた。自民党案にみるフィルタリングへの奇妙なコダワリや、第三者機関の政府による審査・登録制について悶々と違和感を感じていたのだが、やっと違和感の理由が判った。結局のところこのスキームは、政府による検閲を形式上は民民規制にしているだけで、発想の出発点から間違えている。
本来フィルタリングは様々な児童保護手段がある中で、保護者による児童監督のための補助ツールであって、決して国家による検閲の補助ツールではない。従ってフィルタリングの在り方に対して政府が口出しする場合、そのツールの有用性を保護者が適切に判断できるだけの情報が提供されているか監視する消費者行政の枠組みで検討すべきであって、具体的には情報の非対称性を解消するために何らかの品質表示義務を課し、評価指標の確立に対して予算措置を講ずるといった行政手法が取られるべきであろう。
数ある児童保護手段のうちフィルタリングだけを特別扱いし、レイティング基準や有害情報の定義を決める機関を審査・登録制とすることは、かかる消費者行政の理念からかけ離れ、形式的には民民規制とすることで政府に課せられた様々な法的制約や説明責任を回避しつつ、第三者機関を政府の検閲下請け機関として実質支配する意図を疑われても仕方あるまい。
有害情報基準策定機関やレイティング事業者を届出制ではなく審査・登録制とする場合、一般的に財務適格や事業計画について外形的な審査が行われると考えられる。サイトの有害性について基準を定め、有害コンテンツを適切にレイティングする業務について、これまでSafety Onlineの策定やホットラインセンターの運営に公費を投入せざるを得なかったこと、与野党案ともかかる領域への財政支出を認めていることから推察するに、補助金を受けられる蓋然性の高い機関しか審査を通らないことも考えられる。
これでは用紙割当を餌に民民規制で言論統制を推進した、戦前の大日本言論報国会のスキームと何ら変わらない。民間第三者機関での意思決定に対して憲法や行政手続法が制約しない分、政府による検閲よりも性質が悪い可能性さえある。フィルタリング技術は数ある児童保護手段のひとつに過ぎず、しかも発展途上であることを鑑みるに、現時点での技術を踏まえて政府が過度に規制することは望ましくない。
あくまで保護者の選択肢のひとつとして、保護者が適切なフィルタリング・ソフトウェア等を選択する上で十分な情報が提供されること、不当にブロックされたサイトやマイノリティに、事業者に対して抗弁の機会が提供されることが重要なのである。これは事前規制ではなく事後確認と紛争仲裁で実現可能なのであって、ビジネスモデルを確立しないまま第三者機関の財務適格を問えば、本来は必要ない政府の裁量権を認め、補助金を通じて民間第三者機関を政府が実質支配して、検閲よりも野放図な表現規制を可能にするだけでなく、新たな天下り先と利権を生み、この市場への新規参入を阻むことで児童保護技術の進歩を阻害する可能性さえある。
民主党案で謳われているように、ネット規制の目的は児童の人権保護にあるのであって、フィルタリングは数ある保護者による児童保護手段のひとつに過ぎないという原則に立って制度を検討すべきではないか。国会会期末へ向けて時間は限られているが、かかる不安を払拭するような素晴らしい法案が出てくることを期待している。