雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

転職と次の10年

いささか古い話になるが、やまもとさんとの対談の終わりに何でヤフーに入ったのか聞かれて虚を突かれ、割とシドロモドロに答えた。で、対談の本題からは外れていたし編集部は気を利かせて対談から削ってくれたけど、ようやく後任も着任したことだし、いろいろな人に繰り返し話す中で、何となく頭の整理もできたし少し書いてみたい。

ただ、私が本当に楠さんに問いたかったことは「なぜそうまでして現場にいたかったか」であります。マイクロソフトでのキャリアを捨てて、ある意味ヤフージャパンというドメスティックな大企業に戻って現場を志向する優秀な技術者の考え方ってのを知りたかった。それはたぶん後半に書かれているはずです。おそらく。

僕は自由に勉強でき、潤沢な予算で行きたい時に行きたい場所へ行けて、成長の機会を与えてくれ、気前よく給料を上げてくれた前の会社にはとても満足していた。最後の3年ちょっとは米国人が上司のInternational Teamで世界10ヵ国以上に散らばった同僚たちとの協調作業はとても刺激的だったし、Cloud Computing電子書籍の標準化に関わることの手応えも感じていた。
とはいえ30代も後半に入って本来業務を無難にこなしつつ、このポジションにいる限り日本での責任者ではあっても部下を持つ苦労に恵まれないことを懸念した。僕は会社のポジション的には標準化の仕事で給料をもらっていたが、その分野で他国の同僚ほどの活躍はできないまま、社内きっての政策通として規制緩和を働きかけ、日本にとって必要と考える国際標準化活動 (例えば自治体システムの外字撲滅に必要なIVDの整備や電子書籍のEPUB3、その要素としてのCSS3の縦書き、ホワイトスペース無線技術など) に適切な投資が行われるよう政府に働きかけてきた。これらの課外活動は実を結んだし、関わることができて本当に良かった。上司からみれば最低限の仕事はやっているし、日本国内での評価もあるので長い目で見てくれていたのだと思う。
心変わりの契機は会社の引越と3.11だった。僕は新宿の外れにある文壇バーをこよなく愛していて、恵比寿の電脳隊に住み込み白楽の大学に通う学生時代から飲み歩くのはいつも新宿だった。小田急沿線に住んで新宿のオフィスに通う生活には満足していたが、会社が品川に移ってから通勤時間が30分くらい伸び、しかもそれが大混雑する山手線だったことに辟易した。混み具合なら新宿駅も品川駅もそう変わらないが、品川はサラリーマンが多い上に築浅な駅舎が大振りで、通勤時間に歩いてると自分が何だか映画「モダンタイムズ」に迷い込んだような疎外感を覚える。
理解ある上司だったので毎日のように品川に通う必要はないが机くらい置いておけといわれ、半分くらい出社してた矢先3.11に遭遇した。地震そのものは大したことなかったが品川の港南口は帰宅難民に溢れ、飲食店は軒並み店を閉め、山手線は終日運休で駅は人で溢れ返った。高輪方向に抜けられれば地下鉄で帰れたのかも知れないが見通しは不透明だったし、徒歩で品川から自宅に帰る路をGoogle Mapで調べても曲がる場所が多過ぎて覚えられる気がしなかった。新宿や六本木ならチェーン系じゃない飲食店が地震後も店を開き、暖かい食べ物を食べられ、路に迷う心配もなく徒歩での帰宅を選べただろう。いつ東京が大地震に見舞われるか分からない中、再開発で人を集め過ぎた品川駅港南口にいることのリスクを感じた。
海外報道で原発メルトダウンを知り、心配する上司からは米国本社でのポジションや移住先を世話してくれるという話もあった。米国からの日本駐在組には大使館からヨウ素剤が配られ、薬剤師の先輩が土曜に発注したヨウ素剤は確保できたが、日曜からは発注さえできなくなっていたことを知った。経済産業省からは東電の計画停電がうまく広報されてないので協力して欲しいという連絡をTwitterのDMで受け取った。
こんな非常事態で電車も動いてないのだから月曜朝の会議は流石に中止だろうと事務方に朝7時メールで確認すると、特に中止とは聞いていないという。委員が来られるのか半信半疑のまま早めに家を出て経堂まで歩いたら電車に乗ってからは普段以上に電車は空いており、開始よりも1時間は早い朝9時に着いてしまった。内閣府地下講堂にはまだニコ生の中継班しか来ておらず、だらだらメールとかチェックしながら他の委員の到着を待った。結局この状況で政務はこられず、事務方と私と座長、副座長しかいない状態で調査会は始まった。普段の2万人超には届かないとはいえニコ生は数千人の視聴者が集まり、プイプイ鳴る緊急地震速報に度々中断されながら、耐震性とか心配な内閣府地下講堂の地下で微妙に怯えながら議論を続けたが、その場にいる委員だけで何か決められる状況ではなかった。
爆発した原発に怯えながら周囲の線量が何μSvになったら九州まで逃げるべきか、実際そうなれば街はパニックで子連れで移動できないんじゃないかと真剣に悩みつつ、原発が大丈夫でも流通の混乱が早期に収束しなければ食いっ逸れるんじゃないか、原発を頼れなくなれば日本の財政破綻は思ったより早まるんじゃないかとか、悶々と悩みながら家族を残す訳にもいかずプラハへの出張はキャンセルした。結果として東京を離れなかったのは正解だったが、4号機の使用済み核燃料が置かれた状況の深刻さを後から聞くと結果論に過ぎないとも感じる。
4月になるとだいぶ状況も落ち着いて僕は出張を再開した。原発大国フランスのホテルで1時間に1度はフクシマについて、日本のテレビで当時みることのなかった反原発デモが頻繁に報じられていたのを見て、本当の危機にあっても渦中にいると気付くことが出来ず、普段の延長で漫然と過ごして茹で蛙になるぞ、もっと日々を大切に、ドカンとコトことが起こっても後悔することのない生き方をしなきゃと悩んだ。アイルランドの同僚からは「チェルノブイリ事故の際ぼくはキエフで働いてたけど大丈夫だった。君もきっと大丈夫だよ」と微妙に励ましてくれた。
振り返ってみると「石の上にも」って気持ちで入った会社に10年近く居着いてしまったのは素晴らしいチャンスを与え続けてくれたからだ。学生時代からベンチャーに居着いた僕は、大規模な組織での仕事を覚えて苦手な英語を克服し、あわよくば黒船の威を借りて世直しができればと思って会社に入った。いずれベンチャーに行くにせよ独立するにせよ、取引先として大企業と付き合わざるを得ないからだ。製品マーケティングとして入社したものの1年以内に政府渉外の最前線に突っ込まれたスピード感には驚いたし、少し背伸びしながらも手応えのある仕事を続けることができた。政府渉外としては情報セキュリティ対策を皮切りに電波の解放や通信と放送の融合クラウド振興や規制制度改革などに携わり、青少年インターネット利用環境整備法の審議では国会答弁の機会をいただくなど一通りやり尽くした。
そして次の10年で取り組む問いを立て直すための模索を始めた。原発が止まって計画停電を経験し、スーパーの棚が払底して白米や水を入手できずに焦れる間、これからの10年ではエネルギーや食糧の輸入に必要な通貨の信任が改めて論点に上がるだろうし、その前提となる財政の持続可能性を左右する社会保障と税について理解を深める必要を感じた。かつて6ヵ国協議に関わっていた国務省出身の同僚と飲むと、次の10年いよいよ東アジアでHot Warが起こるかも知れないと懸念していた。
人生の機縁とは面白いもので、自分が25歳の頃に抱えていた社会への疑問を概ね解き終え、次のステップへと進もうとしたら、様々な機会が舞い込むようになった。それが補佐官の就任であったりヤフーへの転職だった訳だ。これまでのキャリアの延長では外資系やネット企業の渉外担当の機会から踏み出せなかっただろうけど、僕は政府の内側で悩みながら社会保障と税の仕組みについて理解を深め、置かれている課題とどっぷり向かい合って自分なりの仮説に基づいてサービスを組み立て、苦手かも知れないがマネジメント的な仕事にも挑戦したかった。「求めよ、さらば与えられん」とはよくいったものだ。
この10年で潮目の変化を感じたとすれば、今や古いルールが世の中を悪くしているのではなくて、古き良き時代への懐古を超えるビジョンと勢いに欠けているということだ。であれば黒船の威を借りて空気を読まずに卓袱台返しをしたところで問題は解決しないし、日本の内側からジタバタ苦しみながら困難を乗り越えていくしかない。その機会を与えられたことに感謝して、ひとつひとつサービスを通じて社会の課題を解く営為を楽しんでいきたい。