世代による経路依存への反抗
学校新聞をやっていた中高時代、学生紛争の時代だったらもうちょっと面白かったかもねえ、とか考えたこともあった。たまたま大学に入って仕事を始めたタイミングと日本でネットビジネスが立ち上がったタイミングが同じだったから、体よくネットバブルに巻き込まれ、あまり儲かりはしなかったが面白いものをみることができた。
場数を踏んでいると経験を期待されて新しい機会を与えられて新たに場数を踏める訳だが、そうすると何かの拍子に場数を踏んだ人が場数を踏む機会を独占し続け、後続の人々には新しい機会が降ってこない、という問題がある。よく特定の世代に固まって突出した成果を出す人々が輩出されるのも、特段その世代の連中が優秀だったのではなく、たまたま波に乗って場数を踏み続けるポジティブフィードバックが働いた結果ではないか。
全く新しいことを始めるのと、振られた仕事を卒なくこなすのとでは、全く違うコンピテンシーが求められ、そういった仕事の進め方の違いそのものが経路依存的に、機会や振る舞いを再帰的に規定してしまうのだろう。けだし自分がどの世代に属して、だからどういった機会を与えられ、また与えられなかったという話はいささか不毛ではないか。結局のところ神様から与えられた同時代の中で泳ぐしかないのだから。
ただ場数と機会の循環から抜け出す確率を高める方法はあって、それは受け身とか義務、経済的便益だけでやることを決めるのではなく、何かしら賭けてボランタリー・コミットメントすることではないか。儲かる前、たくさんのひとが群がる前に、経済的誘因とは別のかたちで何かに入れ上げることは、まあ宝くじのようなものだが、宝くじと同じで先駆者となるには誰しもそういったリスクを取っているはずだ。
広くITという点では情報サービス産業ってかれこれ50年くらいの歴史があって、まあWeb系のB2C事業が立ち上がったのはここ10年ではあるが、情報サービス産業全体でみるとなかなか煮詰まった感があるとはいえ、その周辺領域でミニバブルのようなものはこれからも起こり続けるのだろうか、よく分からない。
ところでこの世代による機会不均等って日本だけの問題なのか世界的にそうなのかが気になる。日本の場合、新卒での就職とか、どこで何をするか決めるタイミングが人生の中で非常に限られていることが、こういった機会不均等を助長し、結果を出す人々が特定の世代に集中してしまう一因である気がする。人材の流動性が高まり、年齢に拘らない起用ができるだけでも、この辺の事情はだいぶ変わってくる気がするのだが、制度的にできても、文化とか文明を上書きすることは非常に難しいのだろうな。
なんかこう諸々のことを抱えて、日々やるべきことに押し流されて予定を消化しながら生きていると、気づいたら取り返しのつかないところまで流されるようなこともあるんだろうなあ。人生とはそういうものなのかも知れないし、但しそういった運命に逆らうことは、やらなくてもよくても気になることを大切にして、ある程度の余裕を持って、見返りを求めない活動を行うべきなのだろう。情けは他人のためならず、というと月並みな結論ではあるが。