雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

「加藤の乱」を平成の血盟団事件にしないために

天漢日乗のエントリによると、アキバ通り魔事件は「加藤の乱」と呼ばれつつあるらしい。あれはテロではなく単なる通り魔だし、まぁテロも通り魔も自意識を持て余した青年の吹き上がりという点では大差ない訳だが、あまり持ち上げると便乗犯を招くんで過剰な意味付けは避ける必要がある。という訳で、アキバ通り魔事件はテロじゃないし、あれを以て剣はペンよりも強しなんて結論づけちゃ、まずいだろ。
ところで剣とペンとどっちが強いかって議論は不毛だ。世界を動かすには両方とも必要なんである。福田政権は当初「加藤の乱」に対して刀狩りで収めようとしていた。それを派遣業法の見直し等に軌道修正したのはペンの力だ。加藤容疑者は日雇いじゃないんで多分に議論はこじつけだし、やるべきことは他にある。暴力装置は言論とセットでなければ世の中を間違っていない方向に変えられないし、暴力が仮に世の中を変えたとしても、それを以て正当化される訳ではない。
日本は日露戦争くらいまでその辺を正しく理解していて、日清戦争で台湾を得た後、台湾まで海底ケーブルを敷設し、台湾-ベトナム間の国際海底ケーブルを持つ電話会社を買収して、ベトナム経由で英国と植民地を結ぶAll Red Routeに接続した。日本の国際回線はそれまで、明治3年に維新のドサクサで列強の圧力に負けてノルウェー大北通信に認可した上海-長崎-ウラジオストックの海底ケーブルしかなく、大北通信にはロマノフ王朝の資本が入っていたから、仮にその国際回線を使っていれば日本側からみた戦況は全てロシアに筒抜け、ロシアに不利な戦況は海外に発信できなかっただろう。
自前の回線でAll Red Routeに接続したからこそ、日本寄りの戦況情報が欧米のマスコミに流され、陸海軍は歪められていない戦況を基に戦略を立案できた。そういった環境にあって、岡倉天心、バロン金子、ヨネ・野口といったイデオローグたちが欧米世論を親日に導き、高橋是清は外債調達に成功したのである。日露戦争のすごいところは、秋山兄弟はじめキャラ立ちした軍人達たちの剣だけでなく、時間をかけて媒体を確保し、論客を育てた上でのペンの勝利でもあったことだ。
残念ながら昭和に入って戦争に当たって国益とか国際世論とか保秘よりも陸海軍間の面子とか予算を気にするようになり、海軍では艦隊派 vs. 条約派、陸軍では皇道派 vs. 統制派といった不毛な争いに明け暮れ、5.15事件、2.26事件といったクーデター未遂が起こってしまった。2.26事件なんか昭和天皇が、跳ね上がりの皇道派青年将校たちを逆賊と名指しするまで、この国は揺れていた。
ロシアを負かして近代国家としての体裁が整ってから、天ではなく上をみて仕事する馬鹿が増えたのだろう。今の日本企業が置かれている状況とよく似ている。これは偶然だろうけど、熟練工の長期雇用による囲い込みと下請けによる稼働調整という構造ができたのが日露戦争後、新卒一括採用が第一次大戦後、年功賃金が国家総動員体制を契機としていることを踏まえると、日露戦争後の日本政治や軍隊の自家中毒と、昨今の日本企業が抱えている閉塞感と、それなりに似た要素があっても不思議ではない。
ところでマスコミが機能していないのは政府による確信犯的な情報統制のせいではなく、マスコミ自身も世代問題を抱えた構造不況業種だからなんだけどね。仕事がら団塊世代の偉い人と会う機会が結構あるんだけど、彼ら暴動を心待ちにしている。先日もシアトルの高級レストランで「それで君、日本でも暴動は起きそうかね」とか繰り返し聞かれて、代々木公園での聖火リレー抗議デモに数千人集まったり、蟹工船が平積みになっている話とかするわけだ。はぁ。
だから希望を失っちゃいけない。欧米はどうせキリスト教圏でグルだと決めつけていたら、日露戦争に勝算はなかった。団塊世代が年寄りの味方だろ!と決めつけるのも、それと同じくらい現実をみていない。偉くなった連中はいくらでも食い扶持を探せるし、彼らは多感な時期に学生運動を経験している。小泉改革の時、拍手喝采して弱者切り捨てを支持したのは当の弱者たちだった。1980年代米英のネオリベ然り。議論を腑分けしてみると、意外とロスジェネの再教育とか会社身分制の撤廃を支持する人々って多い気がするんだよね。そもそも若者が働かないで困るのは、頼らなきゃならない年寄り達なんだし。赤木智弘が「丸山眞男をひっぱたきたい」と書いたことを面白がっているのも、同時代の文化系よりは団塊世代学生運動崩れなんじゃね。正論は意外と影響力を持つし、この隘路にあって真面目な議論をしていれば、意外と損得勘定を超えて話に乗ってくれるオヤジは多いんじゃないかな。
加藤は結局のところ、ナイフで幸せを掴めなかった。そして彼は世の中を変えることに対して何らコミットしていない。彼の行動が惹起したのは単なる刀狩りで、ペンが彼の剣を一方的に利用したのだ。だから今なおペンは剣よりも強い。テロリストでさえない非モテ連続殺人犯をヒーローにしてはいけない。けれど彼の凶行を我田引水で意味付けて、安穏としている政権に喫緊の政策課題を突き付けるのはペンの力だ。それで世の中が動いたとして、それは彼の凶行のお陰ではない。そもそも彼は誰かのために凶行に及んだ訳ではなく、自意識を持て余して吹き上がっただけだ。彼はテロリストのように、自分の行動を意味付けることさえしなかった。テロリストが自分の行動を意味付けていたとしても、その凶行が正当化されることはない。
暴力は不毛だし無力だ。そこを勘違いしてはいけない。君が本当に社会を変えたいなら、無辜の民衆を死の恐怖に晒す前に地道にできること、やるべきことが山ほどある。絶望は決して暴力を正当化しないし、社会を変える近道でもないのだ。

テロルの決算 (文春文庫)

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国際通信の日本史―植民地化解消へ苦闘の九十九年

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494さんの予想が外れることを願うが、加藤容疑者は地獄の蓋を開けてしまった。
ワーキングプア問題は、社会の安全弁を外した、ということに、これまで経営者側はまったく気がついてなかった。気がついていたとしても、まさか、テロが起きるはずがないとタカをくくっていた。

剣はペンよりも強し。
ペンのほうが強いのは、マスコミが正常に稼動している状態のみで、今のような情報統制された日本社会では剣に頼らざるを得ないと考えるものがいても不思議ではない。