雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

超ガラパゴス以前に押さえておくべき戦後IT技術史

どうせ政治的に大盤振る舞いする必要に迫られているんだから、ベストを尽くすしかないよね。答えを持っている訳じゃないけれども、大まかな戦後IT技術史に対する視座を踏まえた上で少しでも有効な使い道に頭を絞ってはどうか。これまでの政府が充分に合理的であれば、財政出動で成長率を回復させることは難しいけれども、欧米だって技術開発を市場任せって訳でもないし、特に戦後日本が政治的に避けてきた領域や、規制や利権で手付かずとなっている領域を中心に、投資機会は残っている気がする。

一時的な財政支出拡大の効果は一時的な所得拡大であり,景気の落ち込みを部分的に相殺することが目的だ。喩えるならば,痛み止めである。景気の回復は民間の自律的な成長によってもたらされる。ところが,財政出動に積極的な政治家は,財政出動で成長率が回復すると信じているようである。

誰が技術開発を牽引するのか

米国コンピュータ産業の牽引車は防衛・宇宙産業だった。コンピュータも、インターネットも、CDMAUWBもSDRも全て軍需から産まれた。横須賀もサンディエゴもヘルシンキも、近くに海軍の軍港があった。グーグルは軍需で食っちゃいないが、スタンフォード大学のデータベース研究にいつ誰が何のために投資したか調べてみるべきだ。日本も戦前の航空機産業はGHQによって解体されたが、散った技術者たちは自動車産業隆盛の礎を築いた。
戦後日本では文部省肝煎りで東大と組んで最初にコンピュータをつくた東芝も、独力で最初に動くコンピュータをつくった富士写真フイルムも計算機市場から撤退して電電ファミリーだけが生き残った。朝鮮特需でパンクした東証のパンチカード導入計画を機に計算機事業への参入を富士通に勧めたのは東大TACを指導した山下英男教授で、少なくとも1980年代初頭の超LSIあたりまで産業政策が輝かしい成功を収めたと信じられている。
一方でホンダやソニーのように、役所による指導の外側で育った企業もある。トランジスタも液晶もプラズマも米国で発明されたが、量産と商用化では日本がリードした。MPUは日本の電卓ベンチャーのビジコンが構想したのに国内メーカーから相手にされず嶋正利氏が海を渡ってインテルを頼った。ビジコンはオイルショックの煽りで潰れた。

なぜ戦後の超LSIまでの産業政策が成功したか

国際的に「MITIの奇跡」が信じられている時期もあったが、大プロを通じた通産省電政課の役割は大手ベンダの研究開発投資に対する資本不足を補いつつ、国内ベンダ間の過当競争に対して横串を通して戦略の絵を描く部分で、電電公社による旺盛な投資意欲が下支えしたからこそ政府主導・プロダクトアウト型の戦略が通用したのではないか。軍や電話会社といった技術評価能力を持つ官僚組織による運用を前提とした継続発注こそ重要であること、資本市場の厚みが増して資金調達が用意になったことを考え合わせると、裁量的経費で研究開発を助成する政策アプローチ自体が、対象テーマを問わずIT分野では成功し難くなったという仮説は考えられるか。

なぜ1980年代末から産業政策が行き詰まったか

キャッチアップ路線の終焉とは必ずしも米国を追い越したことだけでなく、通信自由化によるレント分散と日米構造協議を通じた市場開放の後、オープンシステム、インターネット、産消逆転の波が襲った。その後のベル研、PARCはじめとした中研の凋落、欧米通信機器・汎用機ベンダーの行く末をみるに、仮に米国からの圧力がなかったとしても遠からず行き詰まったのではないか。或いは1980年代以降のデジュレ垂直統合・政府主導からデファクト・水平分業・市場指向というトレンド自体が、個々の政策だけではなく半導体の指数関数的な性能向上や資本自由化といったマクロ環境に促された変化と考えるべきか。

なぜケータイは世界に出て行けなかったか

PDCまでは技術方式が異なったから。W-CDMAの展開が進まなかった理由は諸々だが、ネットバブル崩壊とか未熟な周波数オークションだとか諸々の事情が重なって国際的に3G投資は進まなかったしドコモの海外展開も難しかった。キャリアってインフラ産業であると同時にサービス産業だから、グローバル経営は輸出産業と比べて極めて難しい。ユーザーの嗜好や可処分所得が違うだけでなく、許認可や他事業者との相互接続条件で、規制リスクや法的リスクが付きまとう事情を知り尽くしてなお、海外に飛び出す危機感があったのだろう。

テレビでは米国を駆逐し、台湾・韓国に追い上げられた

未使用周波数帯域を維持し続けしたいテレビ局とセルラーを商用化したい電話会社がUHF帯を取り合った余波でハイビジョンが米国で脚光を浴びた1990年代初頭、日米貿易摩擦と結びついて日本メーカーの攻勢から米国市場を守るべく米国はテレビのデジタル化を打ち出した。裏を返せばほんの20年前、米国には守るべきテレビ製造業が残っていたらしい。日本はデジタル映像技術で米国を猛追し、液晶やプラズマといったFPD技術を商用化した。しかし経済危機に喘いだ1990年代末から台湾を皮切りに技術供与して短期間で台湾・韓国に追い上げられている。いずれにしても北米からはテレビ製造業が跡形もなくなり、日本の実用化したFPD技術でアジア企業が世界を席巻している。