雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

官僚の前例主義よりも,素人の言いっ放しが性質悪い

教育再生会議が,親学なる提言を出してくるらしい.学んで直ることなら警察も児童相談所もいらない訳で,それって美しい国かもなぁとか妄想してみる.
まあ有識者というとそういうことになるのだろうが,功成り名を遂げた年寄りと,教育関係者しかいない.さしずめ「私たちの時代はこうじゃなかった」「悪いのは学校ではない」「じゃあ親が悪いんだろうから,親のあり方を叩き直せばよろしい」という議論でもあったのだろう.誠に結構な話だ.
親の話をしているのに,親として今の時代を生きて悩んでいるひとの代表はどこにいるのだろうか.どんな風に児童虐待するところまで追い詰められるのかリアリティを持って理解して彼らの立場を代弁できるひとは入っているのだろうか.
たまたま我が家は時々こどもを連れて人形劇をみにいくこともあるが,結構な時間テレビをみているし,最近はDSでゲーム漬けなところに頭を抱えている.怒鳴らないように,叩かないように自制しているつもりだが,手が出ることもある.直そうとしてるけど.
いいことだとは思わないし,親としての自分にそれほど高い点はつけられないが,いつの時代も大概の親ってそういうものじゃないかと思う.まあ文化資本というか,親から叩かれて育った子のはやっぱり子を叩くとか,そういう因果もあるんだろうな.*1
実際,個々の問題に着目したときに,教育より家庭に問題があるのだろう.早寝早起き朝食をちゃんと食べる子の方が,頭もいいし生活態度がキッチリしているに決まっている.けれどもいつの時代だって,早起きで朝食をつくる親もいれば,そうでない親もいる.子供好きもいれば子供嫌いもいるし,金持ちもいれば貧乏人もいる.言葉でいい聞かせる親もいれば,折檻する親もいる.そのままでいいとは思わないけれども,法律をつくれば治るという話でもない,ひとつの現実である.
地域コミュニティによる子育てのサポートが減り,周囲の目が行き届かなくなっているとか,核家族化と年金支給開始年齢の引き上げで親による子育てサポートを受けにくくなっているとか,少子化や労働力の流動化によってブルーカラーでは長時間労働が常態化し,労働時間では恵まれている連中だってブロードバンドの普及でパソコンによる仕事の持ち帰りが増えている.子育ての在り方が変わっている背景には親の生活環境が変わっているのであって,そこに手をつけずに親であることの責任をさらに重くするような施策を打っても,少子化を促すだけではないか.
年に何度か観劇させたからといってテレビ漬けでなくなる訳ではない.仮にテレビ漬けを問題にするなら,下らないバラエティばかり流しているテレビの番組編成だとか,在宅勤務とは別のかたちで定着してしまった仕事時間の家庭への侵食を労働法の枠組みでどう扱うかとか,放送・労働・福祉政策とセットで議論しなければ解がみえてこないはずで,それこそ文部科学省ではなく内閣官房で議論すべき理由づけにもなるし,そういった観点を踏まえれば有識者の人選も自ずと異なるものになったに違いない.
いずれにしても親学なるものは床屋政談や年寄り有権者向けのパフォーマンスであって,おおよそ政策論と呼べるものではない.過去の政策を否定できない従来の文部行政にも課題はあったけれども,教育再生会議での議論に関しては,それ以前に政策論として知的水準や公正さ,実効性に疑問を感じる.とはいえ安倍政権の支持率が底を打った理由のひとつは「教育改革への取り組み」らしいし,論議を呼んでアテンションを得たところでポピュリズムとしてはいい線を突いているのかも知れない.

政府の教育再生会議は近く公表する「親学(おやがく)」に関する緊急提言で、子守歌母乳による育児の奨励、親子でテレビではなく演劇鑑賞などを呼びかける方針だ。背景は、核家族化による親の孤立や、相次ぐ児童虐待で指摘される家庭の教育力低下という問題が横たわっている。

*1:僕が金融SEの仕事から足を洗ったのは,そこで働く機会を得て,父の自分に対する理不尽な威張り方が,銀行の主契約者に対する詰め方,主契約者の下請けに対する詰め方に通じることに気づいたからだ.世の中にはもっとひどい世界が山ほどあるのだろうし,そういった理不尽な世界に暮らす親に,子どもに対して仏でいろというのは難しいのではないだろうか