雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

秋川の鱒釣り場で考えさせられたこと

今日は子どもたちを連れて秋川へ鱒釣りに行った。子どもたちは浅瀬で遊ぶのに夢中で、釣りは僕がやって時々子ども達に竿を握らせてやるのだが、普段あまり殺生をしないもので、釣った魚が苦しんでいるのをみるだけで結構つらい。釣り針をすぐ外せればいいのだが、飲み込まれてしまうとピチャピチャ跳ねる度に鰓から血が出てベタベタするし、口をパフパフやりながら悶え苦しみ、その悶えが針傷を深くして余計に彼を苦しめているのをみると痛々しい。どうせ割き場で裁いてもらうにしても、もっと安らかな死に際があったのではないかと気の毒になってしまう。
1匹目は針を飲んだのを外せず割き場で処理してもらったが、放流のあとに釣れた2匹目3匹目はうまく針が外れたので、浅瀬に囲いをつくって生け簀にし、子ども達に遊ばせた。子ども達は生きた魚を触って随分と楽しんだ。因果なもので、釣られた魚も水に戻されれば動くし、彼らなりに逃げようとする。子ども達は生け簀の鱒を楽しそうにからかう。はしゃぐ子ども達に目配せしつつ釣り竿を持ちながら、あの鱒にとって一生とはどういうものかということを考えさせられた。
彼らは釣り堀に放流される鱒として何不自由なく養殖される。そして大きくなれば、この釣り場に放流されるのである。これまで楽に養殖されていたのが、これからは餌を釣り針から横取りしなければ生き残れない。鱒の多くが放流されたその日に釣られてしまうのだろう。いつもうまく釣り針から餌だけ横取りしつつ生き延びる鱒とかもいるのだろうか。彼はしかし数m四方の区画に閉じ込められて、どんな経験をできるのだろうか。たまに雨で増水すれば数%とか釣り場を脱出する鱒もいるのだろうか。何不自由なく育った彼らは、自然界を生き延びることなんてできるのだろうか。
そもそも、釣り堀で釣られるために育てられた彼らの生い立ちそのものが理不尽なのである。けれども彼らは自然界に生まれるよりは、養殖場で何不自由なく育ち、恐らく自然界よりは遥かに高い生存率を保障される。少なくとも成魚となるまでは、野生に生まれるより養殖場に生まれた方がかなり幸せかも知れない。ところが晴れて丁度いい大きさとなったところで、バトルロワイヤルの世界に放り込まれる。殆どの餌に悪意がある世界に放り込まれ、釣られたその日に割き場で裁かれる運命が待っているのだ。
彼らにはかくも理不尽な彼らの境遇を客観視できる機会は与えられないし、悩むこともなく釣られて裁かれてしまうのだろう。それは次元の違うところでヒトの人生にも似たような理不尽があって、そこに気付けない構造となっているのかも知れない。仮にそれが世の現実であったとして、どう想像力を膨らまし、或いは飛翔できる可能性があるのだろうか。もし自分が釣り場に放流された鱒だった時、どういった世界認識を持ち、どう行動すれば活路を見出せるのかとか、そういう不毛なことを考えた。
近代の生んだ病があるとすると、科学的に取り組めば解けるとか、賢く考えれば救われるといった確信ではないか。世の中には、どうしようもないこと、どうにもできないことが山ほどあるのだ。仮に放流された鱒が知性を持っていたとして、かかる難局を理解し、打開できる機会はあるのだろうか。