雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

若者による脱世代論の号砲に拍手

おまえが若者を語るな!』を読んだ。中学から高校にかけてニューアカとか宮台の影響を受け、GLOCOMに所属しISEDに参加した筆者には耳が痛い指摘も少なくないが、変節したサブカル論者の言説に辟易していた筆者としては我が意を得たりという思いもある。彼が『「ニート」って言うな! (光文社新書)』で若くして論壇デビューした割に、衒いなく地に足の着いた議論を続けているのは素晴らしいことだ。本書を読んで溜飲を下す社会科学者の方々は多いだろうし、逆に本書を以って安直な世代論がなくなるとも期待できないだろう。但し、僕ら宮台の影響を受けた30代以上の論者にとって、本書の批判をどう受け止めるかは、ひとつの踏み絵となるのではないか。

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

おまえが若者を語るな! (角川oneテーマ21 C 154)

彼の批判は理知的かつ根拠に基づき、読ませるところがある。批判されている本を詳らかに再読した訳でもなく評することは難しく、個々の論点については著者等の反応をみて判断したい。きちんと反論するのが若き論客を育てる上で誠意ある対応だろうし、反応しないってことは批判を甘受するか、もとより確信犯でやっているから黙殺するのだろう。世代論を終わらせようという問題意識は買うが、それは論壇の救われなさに絶望していないか、論壇と学会との以前からの断層に対し無自覚ではないか。
『制服少女たちの選択』までの宮台が社会学的な研究成果に裏打ちされていたが『終わりなき日常を生きろ』以降の宮台が従前の社会学が培ってきた論理や実証の手続きを経ずともセンセーショナルに社会の変化を活写できるという印象を多くの論者に与えたという指摘は一面で真実だろう。しかし、そもそもデータ、分析、解釈それぞれのレイヤーで別々のもっともらしさがあって、論文であれば全体で反証可能性を担保する必要があるが、それを一般書の読者が望んでいるとは限らないし、端からみた勝負は論壇政治とか売上部数とか社会的影響とか、全く別の曖昧かつ気紛れな尺度で決まってしまう。
反証可能性を放棄してデータから遊離した衒学的な言葉遊びをしたとして、それが宮台真司に感化されたと決め付けるのは若気の至りで、坂口安吾とか小林秀雄、或いは吉本隆明の下手な猿真似かも知れない。いつの時代も印象に基づく無責任な論評はあって、時に颯爽と現れて社会に影響を与えるも、議論の前提や時代の空気の変遷に耐え切れず忘れ去られるのだろう。時代の変化が大きい時は安直な世代論が大衆から求められ、せいぜい90年代からの作法に大きく影響を与えたのが宮台として、それはそれでニューアカ的な時代の流れを踏んでのものと推察さえる。いまどきの本屋に並んでいるかは知らないけれど。
反証可能性なき喧嘩の勝敗に客観性や意味があるかと問われれば疑わしい。けれども筆者の論う書の多くは学術論文ではなく、本屋に平積みされるアジテーションの鼻に突く新書の類だ。学術的作法を理解して論理的に検証する読者なんか一握りで、多くは飛ばし読みしながら心地よい言説に酔い、元気をもらって「あー、面白かった」以上、でいいのではないか。誰かの勝ち負けを知りたくて重箱の隅を突いて読む読者なんかほんの一握り、何とか論壇といった泡宇宙の住民に過ぎない。学者出身の論者は学術論文の作法は知った上で一般書では一般書の作法で勝負している場合もあって、それを反証可能性がないから俗流若者論なのだと批判されては敵わない。
無論その作法を表層的に真似た根拠なき言説も数多くあるだろうし、学者であっても脚光を浴びて発表の機会が増えたとき、地道な検証を経ず自分の考えを世に喧伝したくなる誘惑には抗し難いのだろう。そうやってデータや検証から遊離し、主観を分析と偽って垂れ流しても、読者の大半は著者の肩書きや権威に騙されて学術的な検証を経たものという誤った印象を持つ。否、最初から裏づけなんか求めておらず、自分の苛立ちに正当性を与えられれば十分なのかも知れない。この情報の非対称性やマッチポンプ構造をどう克服するかを考えると、世代論を廃するとか、一般書にも反証可能性を求めるといったところよりも、更に根深い問題が横たわっているのではないか。例えばリップマンが『世論』で論じたような非常に古典的な問題が。
そもそもの困難さを認めた上で論者の倫理を問うとか、影響力を持った言説に対して根拠と反証可能性を検証するといった民主的アプローチの効果を認めつつ、その結果いまのような均衡かという絶望もある。だが彼の言説が少しずつ注目されることも変化の兆候ではあるし、彼も既存の権威を論うだけでなく自分が踏み込んで何か世に問おうとする時、遠からず宮台が『終わりなき日常を生きろ』に踏み込んだ時と似たような葛藤と使命感に直面する予感もあるし、それは必ずしも悪いことじゃない。例えば『個人的な体験』以降の大江健三郎とか。誰だっていつまでも若手論客じゃ居続けられない程度に、世の中は無常かつ健全に回っているのではないか。そういった意味でも日本の将来に対して勇気付けられる1冊ではある。
深夜に長々と書いたが後から簡単に要約すると、本書の主張に首肯するところも多いが、売れ筋の新書は社会学の論文じゃないのだから反証可能性を求めるのは筋違いだし、だからといって学者が根拠のない主張を喧伝するのはミスリードだから本書のように若手から論拠を問う突っ込みは入って然るべきだ。けれども安直な世代論と戦うために一般書に対して反証可能性を求めたり、世代論そのものを否定したところで、なぜ反証可能性のない安直な世代論が世間で広く受け入れられるかという背景に切り込むことにはならない。
自分の提案が世間から受け入れられるためには、理論的裏づけのある建設的提案を耳当たりのいいストーリーに落としていく必要に迫れれることもあるだろう。その時、議論はどんどん本質からかけ離れて売り言葉に買い言葉となることもあるだろうし、必ずしも苦労して理論的裏づけを取らなくとも装飾次第で諸手を挙げて受け入れる主張を組み立てられることに気づくのではないか。そこで根拠や論証から遊離して言葉遊びに耽って同じ穴の狢となることなく、さりとてファンクラブや内輪に立て籠もることもなく、愚直なまでに理論的裏づけに拘り続けるには、論客としての虚栄心や権力欲を克服できる良心と、話の通じない相手と闘い続けるだけの胆力が求められるのではないか。