雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

日本語の壁、日本の壁。

できれば本を買ってから何か語るべきなんだろうけれど、Amazonに発注したばかりで数日はかかりそうだ。この本を巡る議論で予備校時代のことを思い出した。自分が役所に出入りし政治家と会って政策課題を技術的に噛み砕いて説明し、解決へ向けて諸々のお願いをするという営為をいつ始めたか振り返ってみると、予備校時代に秋葉原で知り合った日本語教育の先生の手伝いでネットで日本人が英語を読むようになったのに、外人が日本語を読もうにも文字化けして困るという相談されてからのことだ。

そういうことであるから、日本語が「現地語」として滅びるといっているのではなくて、普遍的なことを語る役割を担わされてきた近代国民国家の「国語」が、英語が新たな「普遍語」となることによって、変質をこうむる、という見通しを水村は述べているのである。 

いま考えると馬鹿みたいな議論かも知れないが、国費を投じて日本語コードをビットマップに変換する代理サーバーを置こうとか、否、フォントサーバーを置いてブラウザがフォントを参照するようにした方が美しいんじゃないかとか、そういう議論をしていた記憶がある。Internet Explorer 3から多言語アドオンが提供され、それらをインストールすれば日本語の閲覧どころか入力もできるようになったが、あの時代は大真面目にイスラエルベンチャーが出している何とかMosaicを使えば数十カ国語が読めるとか、そういう情報を集めては侃々諤々の議論をしていた。
それから13年の時が過ぎ、世界中のパソコンで普通に日本語を表示できるようになったが、日本や日本語を取り巻く壁がなくなった気はしない。個人的には英語で用は足せても政治はできないよね、とか思うことがある。お互いに通じ合ってるときのコトバと、気まずいけれども言っておかなくてはならない時のコトバとでは越えられない壁があって、フニャフニャの英語で語りかけられると大体の場合は悪い兆候だったりする。英語に敬語や婉曲表現がないとか、そういう都市伝説は誰が紡いだんだろうか。閑話休題
技術的には例えば今なお文字コードの問題が揺れ続ける国語施策に翻弄されたり、それ以前に地方自治体の外字どうすんの的な話もそうだし、欧米圏の言語では概ね自動翻訳の精度が上がって壁が消えかかっているけれども、特に日韓とか自動翻訳の精度がなかなか上がらない、という話がある。検索やフィルタリング・ソフトのアルゴリズムも、分かち書きでない分、欧米圏のアルゴリズムや手法をそのままでは持ってこれないことが結構あるし、もともと親指シフトを使っていた私からすると、ローマ字入力なる非生産的な打鍵方法が一般化したことで、日本全国でどれほどの時間が損なわれているか、想像するに非常に馬鹿にならない気がするのだが、そういえば新JIS配列を巡るゴタゴタとか昔あったな。けど、そういう技術的なフラグメントよりは、様々な外来語を受け入れる中で、実は日本語を使っているようでいて、セマンティクスやコンテクストの面で英語からの翻訳や英語圏で発想された中で完結している世界って、英語の普遍化に於けるひとつの植民地のようなものとしてあるのではないか。
プログラマーなら僕と同じように、英語が苦手といっても新しいことや細かいことを調べるために、英語で書かれた技術文書の束を相手にしなきゃならないことや、日本語の技術文書でさえ元の英文を考えなきゃ意味の通じないことが少なからずあるだろう。コンピュータの世界にいるって表面的なところで日本語を自由に使えるようでいて、セマンティクスやコンテクストに於いて英語に依存しているのではないか。教科書英語が苦手でも技術文書や会議で困らないのは、僕らが日本語で技術的な会話をしている時から、英語に置換可能なセマンティクスとコンテクストに依存したことしか考えられないよう言葉を支配されており、そういった意味でも英語は普遍語になっているのだろう。
そういうことに気づいたのは技術論を話しているときにはスムーズに英語が口を突くのだが、コンテクストが政治情勢や合意形成の議論になった途端、英語でどう説明すれば筋が通るのか途方に暮れてしまうことがあるからだ。IT業界でも実装そのものから少し外れた途端、英語で合理的に説明できない様々な現実があって、それは英語によって植民地化されていないのか、単に世界には通用しない非合理なのか、その両方なのだろうという気がするし、しかし彼らの論理だって随分と手前勝手だってことは、今回の金融危機で嫌というほど思い知らされた。しかし、型を突き抜けるには型の背景を理解している必要があって、セマンティクスとコンテクストによって無自覚に間接支配されている世界からは斬新な発想が出にくいのではないか、という気がする。
まだ本を読んでいない以上あまりいい加減なことはいえないが、仮に水村美苗が美しいと称揚する日本語が夏目漱石三島由紀夫のそれだとするならば、戦後教育で漢文に力を入れなくなった時点で相当程度は失われているのではないかと思う一方で、漢語だって英語と違えど外来語ではあるし、混ざった中からまた新しい日本語文化が醸成されるのかも知れず、けだし知識人文化の或る層は普遍語たる英語に吸収されざるを得ないのではないかという気がする。
彼らにとって単にインターネットで桁違いの英文に触れることができるようになっただけでなく、マスメディアの水準が明らかに落ち、欲しい情報や分析に英語でなければ触れられない機会が増えたからだ。テレビも新聞も雑誌も、これからますます空気のようにグローバルな情報に晒されている若手知識人の知的好奇心に応えることができないままデジタルデバイドを補う媒体として、数としてはマスでもある団塊知識層や若手下流層向けに、チープだが割りのいい商売をした方が合理的だし、ケータイ小説的な何かはこれからも増えるだろう。
それは必ずしもメディアの堕落ではなく、そもそも知識人向けマス媒体という在り様そのものが矛盾に満ち、戦後の或る時期だけ成立し得た何かであった気もするのである。しかし、そういった状況の先にあるのが戦前的エリーティズムへの再帰とも思われない。今の時代、教養を積むにはあまりに誘惑が多いように思われる。デジタル・ネイティブ世代の知識人がどういう在り様となるか、彼らの紡ぐコトバが何に支配されるのか、水村美苗がどう洞察しているか、今から楽しみではある。