雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

じゃ、ノマドは野生なんだっけ?

もともと「社畜」なる造語は社員と家畜を掛けたのだから、含意として社畜と家畜が似てるのは当たり前な訳で。こんな言説を真に受けてノマド目指しちゃう若者はさすがにいないだろうけど、社畜批判ノマド礼賛ってバブル期のフリーター礼賛と似た危うさを感じてて、別の搾取構造やリスクを隠蔽してるんじゃね?って疑問も拭えないから野暮だなと気後れしつつ論じてみる。

会社に「飼われる」ことを全否定するわけではありませんが、これからの時代はかなりリスキーだと思います。「会社の外をいつでも飛び出していけるだけの力」を持っておくべきでしょう。

会社の平均寿命が就労可能年数と比べて短い以上、若手に限らず危機感を持って会社に依存せずに済むよう自己研鑽に励む必要はあるんだけど、ソーシャルメディアでちょっと目立ったり、アフィリでちょろっと泡銭を掴むことを「会社の外をいつでも飛び出していけるだけの力」といえるかは疑問。若いうちは下積みをやって世の中の仕組みや人間の機微を理解した方がいいんじゃね?って気がする。以下イケダハヤト氏が社畜と家畜の共通点としていることについて論じるけど、ノマドになったらといって社会やら人間関係の煩わしさから解放される訳じゃないよ。

飼われている

まず個人と組織との間の雇用関係と、家畜と飼い主との間の所有関係は異なる。家畜は飼い主を選ぶことができないが、個人には職業選択の自由が認められており、組織は退職を引き止めることはできない。だから個人は自分の意志で組織に所属し続けるか、気が向いた時に退職するし、真っ当な会社は構成員に居続けたいと思ってもらえるよう処遇し、長い付き合いを期待して成長機会を提供し、本人の成長を支援する。
これに対して家畜が飼われてるのは自由意志ではなく飼い主に所有されてる。家畜は逃げ出しても構わないが、普通は逃げ出せないよう物理的に管理されている。個人や組織が人間を所有し、物理的に拘束することは歴史的に広く奴隷制や人身売買として行われ、現代では日本を含む多くの先進国で違法だが根絶されてはいない

搾取されていることに気付いていない

ここでいう「搾取」がマルクス経済学にあるような「剰余価値の資本家階級による取得」を指すのであれば、従前の従業員と企業との雇用関係であれ、企業間の重層的な下請け構造であれ、利用者と仲介業者との契約関係であれ同じように搾取は起こるし、そのことに気づいてる当事者は気づいている。少なくともアフィリで自力で稼いだと思い込んでいるノマドよりは、自分が組織に依存してることを気に病んでる組織人の方が自覚的じゃないかな。それ以前に自由意志に基づく契約を「搾取」と捉える考え方自体が古いとは思うけど。

いつクビを切られるかわからない

善かれ悪しかれ正社員は守られてる。個人事業主や中小企業も下請法とかで守られるようにはなったが、労働基準法よりはずっと緩い。アフィリエイトクラウドソーシングといったマイクロビジネスは法的には個人事業主の類型だから、消費者保護法制の網からも外れてる。小遣い稼ぎの間は問題にならないけど、それで生計を立てるひとが増えた時どうするんだ?と以前から心配していた。そもそも日本法が適用されるとも限らないし、所管官庁もまたがり機能する相談窓口さえないのが現状ではないか。ちゃんと対応できる弁護士さえ少なそうだ。その点は野生に近い弱肉強食といえるのかも知れない。

群れている・現状に満足している

この部分が読んでて最も分かりにくかったんだけど、野生だって広原で群れる動物もあるし、群れをつくれるだけ広い牧場に放牧された家畜は日本じゃ幸運ですよ。僕は家畜の気持ちが分からないけど、狭い納屋に満足してるとは限らないし、組織に所属している人々だって群れてるとも現状に満足しているとも限らない。いま置かれてる状況に満足できないからといって逃げたら解決する訳でもない。その辺の閉塞感っていつの時代も変わらないんじゃね〜の?それこそ終身雇用とかが定着するよりも前から。と、ふと草枕の冒頭を思い出す。

山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

この山路は鎌研坂といって今は散策路として整備され、登ると峠の茶屋も再現されていて、訪れるとお茶で饗してくれて、漱石の生原稿を見ることもできる。閑話休題。組織に属すか否かに関わらず、現状に満足しているとは限らないし、人の世を離れれば楽になるものでもない。

おわりに

組織に属さなくったって元請けやら、仲介業者やら、配偶者やらに依存することに変わりない。ロビンソン・クルーソーを気取って無人島で自給自足の生活を送らない限り、持ちつ持たれつで生きてくしかない。だから会社から離れさえすれば人間社会から自由でいられる、ひとりで生きていける訳ではない。そして人の世で居場所をつくる方法を学ぶ場として会社ってのは随分と守られてますよ。クビになるリスクがあるといったってフリーランスとかアフィリと比べたらずっと守られている。
そして長期的に考えて、持ちつ持たれつ人の世で生き続けるために必要なスキルって実は、パソコンとか英会話とかSEOよりずっと、気が合うとは限らない他人と付き合っていく能力だよ。20代で会社に入って数年間というのは、周囲のオトナが寄って集ってそれを教えてくれる貴重な機会なんだから、突っ張ってないで言われたことをやる。ともかくやってみる。何年か同じ集団に属して人間模様を眺めていると見えてくることがあるし、それは刹那的なフォロワーとかPVといったフィードバックよりずっと大事だから。そこで短期を起こしてノマドになってしまうと向こう数十年を生き抜くために必要なスキルを身につけるために、かなり遠回りさせられることになる。
そーゆーオッサン臭いことを書きつつ改めて考えさせられたのは、ノマド礼賛がこれほどソーシャルメディア界隈で流布する背景として、社会も会社も昔ほど若手を育てるよーな「溜め」がなくなりつつあって、会社中心の労働者保護から疎外される若者が増えている現実もあるんだろうね、ということ。だからノマド礼賛を批判するだけでは悲鳴を受け止め損ねるというか、煩わしいなりに動かせば達成感があって自分の成長を実感できて、必要とされていることを感じられる環境を創っていかなきゃならないんだろうね。