雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

自立できない個人と会社との共依存に干渉すべきか

組織が内部で行う「教育」は、あくまで「習熟」レベルに留めるべきだと私は考えている。それ以上の「教育」は、人それぞれが行い、その成果は人それぞれがプールするべきなのだ。過剰な「教育」投資は、いざその人が組織から離れるに当ってはその人から見て「負債」として働いてしまう。そこまでする権利が今の会社にあるのだろうか?

そりゃそうなんだけど、世の中にはヒト離れできない会社と、会社離れできないヒトがいっぱいいるのであって、それはそれで幸せな会社人生?の中でスキルを蓄積して高いパフォーマンスを出してくれた方が世の中のためになる、という見方もある。
どっちも甘えているのだし、会社だって社員からそう期待されてもたれ合ってる部分もあるのだろう。とゆーか会社なる人格はないのであって、そこそこ長い会社だと、甘えさせているのはもっと前から会社に依存している先輩方だったりする。
そこそこ小さい会社に入ってドーンと大きくなるタイミングで、急に周りが馬鹿ばっかになったと感じることがあった。iConを読むとAppleにもそういう時期があったらしい。きっとライブドアにもあったんじゃないかな。
いや、何がいいたいかというと、そうやってベンチャーが悪い意味で馬鹿というか大人になっていく課程を過ごした者にとって、後から大企業に入ってあーだこーだやっていると、なんか自分もあの祭りの後からやってきた馬鹿の大群のひとりであるかのようにみえてしまうってことだ。いや、みえてしまうというより、たぶんそうなんだけど。
「俺はこれで仕事しているんだろうか」とか「こんな仕事をしていても、成功するか失敗するかなんて時の運であって、それもビジネスよりは政治で決まることだから、そこから何を学べっていえばいいんだろう」「いやビジネスを立ち上げる時だって、抱えている問題の多くはもっと下らないしショートタームのことが多いじゃないか」「けど会社に守られている限り、会社は個人が意図通りに働いてくれるための仮想現実を用意してくれようとするのであって、そういった人工的な仕掛けを現実と勘違いして学習するのは問題だ」「結局ちょっと関係性が異なるというだけで、同じ人間同士の問題じゃないか」云々
けどそういう焦りって最初から守られて生きているとたぶんなくって、上司が自分のことを気に入ってくれるかとか、資格とかスキルとか会社の看板とか、そういうしがみつけそうな何かを探しながら漂うっていうか、探しもしないで口を上に開けて、とりあえず会社から降ってきたものをくっちまって、何も降ってこなくなると、狩りではなく雨乞いをしてしまうようなエートスというのもきっとあるのだろう。
そういう連中には習熟だけでなく教育までやってしまった方が、その場限りは会社も社員も幸せなのだろう。それで会社が持つのか分からないけれども、端から外をみていなければ、社員だって潰しがきかなくなることをリスクとも感じないのだろう。
人間と一緒で、ずっとうまくやってられるよねという期待がお互いに変化すれば、自然と互いにリスクを意識した付き合い方に変わってくるのだろう。そうなりつつあるし、けれども変化はとても緩やかだし、制度はまだ追いついていないし、エートスが宙ぶらりんなまま産業構造の方が地殻変動を起こしているという捻れは、そう簡単には解消しそうもない。