雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

はてブが契機で誰か自殺しても驚かないが

時に殺伐としたネガコメとかあるし、それが響き合っちゃうし、自分も凹まされることあるからねえ。けど書いたエントリがホッテントリに入ると嬉しいし、励まされつつ時に傷つく、みたいな。ネガコメが理由でユーザーの退会騒ぎとか既に起きているし、いずれ誰かが自殺しても別に驚かないよ。で、そんときはてなが道義的責任を問われるかについて、遠からず真面目に考えなきゃいけないのかな。

本来はカッターほどだった言葉の殺傷能力を、サバイバルナイフくらいに、あるいは日本刀ほどに増幅してしまう力が、インターネットには、中でも取り分け「はてなブックマーク」にはある。
だから、そこを管理運営しているはてなという会社には、実はとても大きな責任があるのだ。そこで事故が起きないように気をつけたり、誰かが誰かを傷つけたりしないよう見張っている道義的、かつ社会的責任があるのだと、ぼくは申し上げたのである。

はてなブックマークは仲介者に過ぎない。本質的には脅迫状を郵送する郵便や、誘拐電話を繋ぐ電話、犯人の逃走経路に使われる道路と何ら変わらない。しかし郵便局や電話会社ほど透明・中立かというと、もっと工夫のしようはあるし、サイト運営者からの依頼でブコメを表示しない仕組みとか、それなりに工夫が積み重ねられてはいる。
工夫のし甲斐って意味じゃ郵便や電話よりも、報道やら文学に近いかもしれない。日本の報道機関は未だに「自殺を予防する自殺事例報道のあり方について」のWHO勧告 (2000年)を守っておらず、この辺をもうちょっと配慮すれば、けっこう自殺は減るんじゃないかって説がある。高度成長以降の日本は統計的に若年自殺が少ないが、大正末期から昭和30年代にかけて心中が流行の最先端だったであったらしく、太宰の作品やら心中未遂をジャーナリスティックに扱った当時の新聞雑誌はどうだったのかと問うこともできる。
では報道がWHO勧告を順守すべきか、心中を称揚し自殺を誘引する文学は取り締まられるべきかというと、少なくともこれまでのところ、自殺を減らすことよりも表現の自由の方が重要という比較考量が伝統的には行われてきたのではないか。そういった点で、これまで日本社会が自殺を煽る報道や文学を許容してきたのと同程度に、ソーシャルブックマークを役務として提供する自由は尊重されるべきだと私は個人的に思う。
しかし実際「はてブネガコメに傷付いて自殺します」なんて遺書を残して誰か自殺したとして、はてなが当時の文壇やら今日のマスコミと同じくらいシレッと問題を受け流せるかというと、そうは問屋が卸さないのではないか。わたしははてなブックマークが優れた創作と考えるが、社会的にはid:naoyaの創作物ではなく、はてなの提供する役務として扱われる。このような区別はデジタル時代に無意味だと個人的には思うけれども、我が国では報道や芸術として認められた表現に対しては過剰に自由を称揚する一方で、法人の役務とりわけ新興ネット企業のサービスに対しては道義的責任を強く求める傾向にある。
ハックルの中の人もそのきらいがあるが、メディアで仕事をするギョーカイの人々はパンピーによる思慮の浅い罵倒に対しては表現として守る価値を感じないようだ。確かに彼らの表現は時に自覚を欠いて鋭利だが、それは弱さや語彙の少なさの裏返しでもある。もし仮に「はてブネガコメに傷付いて自殺します」なんて遺書を残して誰か亡くなったならば、はてブを巡る一連の騒動も改めて掘り返されて「危険は予期されていたじゃないか」とかマスコミ報道は大騒ぎするだろう。
本当に必要なのは謝罪や改善の儀式ではなく、事実関係の整理と因果関係の分析に基づく実効的な再発防止策の立案であるはずだが、実際コトが起こってしまうと企業として実態を把握していても故人の名誉に泥を塗る広報が得策でなくなってしまうジレンマは、最近の事件からの貴重な教訓だ。
そういう意味じゃハックル氏の懸念する「言葉の怖さ」って事件が起きた時に問題とされる可能性はあって、今のうちにもっと議論を積み上げて実装に反映する必要はあるのだろう。身内に甘い既存メディアに対して理不尽に感じることもあるが、彼らが何十年も前にそうしてきたように、はてなも現実に揉まれて徐々に重みの増す社会的責任と直面しつつ、時間をかけて社会からの信頼と実装の自由を獲得していく他ないのではないか。