雑種路線でいこう

ぼちぼち再開しようか

バザール的な政策形成の可能性

これは議会制民主主義の中で或る程度は実現しているのではないか。特にねじれ国会になって以降、与野党協議を通じて是々非々で法案が修正され、廃案となるものもあった。確かに今の与野党における党内プロセスは決してバザールとまではいえない。もっと組織的に政策立案できるバザールはこれから整備されるべきだし、オープンソースの歴史が示唆的ではある。

誰でも「いいとこどり」はしているのだ。
なぜ政治にそれが出来ないのか。
(略)
もう伽藍では持たない。
バザールだなければ、持たない。
私が選ぶのは、バザールだ。

Richard StallmanはエディタのEmacsや開発ツールのGccbinutilsなどユーザーランドを整備し、最後にLinusカーネルのピースを埋めた訳だが、そこにはUNIXという共通の文化があり、自由な環境を希求する技術者たちが環境を徐々に構築していった。
PC互換機がなければLinusは廉価でプログラマブルな32bit PCを手に入れることはできなかった。Minixがなければ彼が手元でUNIX環境を使うことも、Minixの制限に不満を持つこともなかっただろうし、gccがなければ自分で書いたプログラムを動かすことはできなかった。comp.os.minixがなければUnix互換環境をつくろうというLinusPOSIXの仕様書を渡す協力者を見つけることも難しかっただろう。そもそもUNIXが当初は公開されて、後になってプロプリエタリとされた偶然が、幅広い知識基盤の共有と、自由を希求する文化やモチベーションに繋がったのではないか。
まだ政策立案の領域で、バザールが実現するには政策をつくるための知恵が共有されるには至っていない。道具が共有され、関心を持つ者同士が連携し、彼らを助けるプロフェッショナル・コミュニティが、エコシステムとして有機的に形成されるには時間がかかる。Richard Stallmanフリーソフトウェア運動を提唱してから、Open Sourceが商用ソフトウェア界隈を巻き込んだ流行に至るまで十数年かかっている。
わたしは政策全般が伽藍で立ち行かないとは必ずしも考えないが、特に経済が成熟して人口が減少する過程で、回避し難い痛みを伴う政策について、建設的かつ粘り強い有権者層を組織する方法として、政策過程のオープン化は有用ではないかと期待している。しかしまだバザールで政策をつくれるようになるには知恵も道具立ても追いついていない。適切な知識体系を持った人々が目的のために知恵を開放して汗を流し、時間をかけて自由な創造を支援する環境を用意し、粘り強く受け入れられる作品が出てくるような文化とコミュニティを育む投資が必要なのだろう。
恐らくバザールを選ぶとは今度の選挙でどの党を選ぶということよりも、それぞれを支持する層が各党で受け入れるべきと考えられる魅力的かつ緻密な政策オプションを実装し、実際に社会を変えようとすることではないか。Linuxが普及する前からSun OSで、HP-UXで、AIXEmacsを使う人々がいて、Windows上でもBoWやらMeadowが出てきた。各党の政策パッケージとは別に、魅力的かつ国民の支持ある政策は拾われることもあるだろう。そうやって成功体験を重ねていく過程で、幅広い層からの協力者が増えて、技術レベルも上がっていくのではないか。
コンピュータ工学の世界で10年前、25年前に起きたようなことが、これから政治の世界で起こり得るのだろうか。ずっと歴史ある政治の方が、もっと早くから民主化されていて然るべきではないかという反論も考えられる。しかし道具と機会の民主化という点に限れば、ソフトウェアは民主主義に大きく先行しているのではないか。それはプログラミングというシンボル操作が、立法というシンボル操作と比べて裾野の大きな産業であると同時に、科学や工学といった学問とスパイラル的に発展してきた歴史が関係している。コンピュータ工学は未来のコンピュータを構想しているが、政治学は過去の政治を再解釈している。それ故にソフトウェア・スタックのガバナンスが、部分的に民主主義の作法に先行していても決して不思議ではない。
これから身を置くことになる歴史に納得するためにも、自分がバザールを盛り立てるべく、何を選び、どう汗をかき足掻くべきかは重要だ。